婚約破棄されるはずでしたが、王太子の目の前で皇帝に攫われました』

鷹 綾

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第30話 それでも、私は前を選ぶ

第30話 それでも、私は前を選ぶ

 朝の光は、いつも通りに差し込んでいた。

 特別な色も、
 劇的な演出もない。

 それでも私は、
 この朝が“終わり”であり、
 同時に“始まり”であることを、
 はっきりと理解していた。

 執務机の上には、
 整理された書類が並んでいる。

 北方鉱山領改革――第一段階、完了。
 制度監査部門――正式稼働。
 南方連合との交渉――白紙。

 どれも、
 大きな成果だ。

 だが、
 胸の奥にある感覚は、
 意外なほど静かだった。

(……達成感、というより)

(……“納得”ね)

 それが、近い。

 女官長が、
 静かに扉を叩く。

「失礼いたします。
 本日の予定ですが――」

「午後は空けてあります」

 女官長は、
 一瞬だけ目を見開いた。

「よろしいのですか」

「ええ」

 それ以上は、
 説明しない。

 説明は、
 もう必要なかった。

 午前中の会議を終え、
 私は皇城の中庭へ向かった。

 整えられた庭。
 歩く人は少ない。

 ここは、
 権力の中心にありながら、
 驚くほど静かだ。

 ベンチに腰を下ろし、
 深く息を吸う。

(……舞踏会の日も、
 こんな天気だった)

 思い出す。

 音楽。
 笑顔。
 祝福。

 そして――
 突然の宣言。

「ビアンキーナ、私は、お前との婚約を……」

 その続きを、
 最後まで聞くことはなかった。

 仮面の騎士。
 馬の蹄の音。
 呆然とする人々。

 そして、
 自分の叫び。

『王太子殿下以外の誰かー!
 助けてー!』

 あの瞬間、
 私は“選ばれる側”だった。

 誰かに救われるか、
 見捨てられるか。

 その判断を、
 他人に委ねていた。

(……でも、今は違う)

 足音が近づく。

 振り返ると、
 シボレー・ノヴァ皇帝が立っていた。

「珍しいな。
 こんなところで一人とは」

「静かで、好きなんです」

 皇帝は、
 小さく笑った。

「そうか。
 では、邪魔をしたかな」

「いいえ」

 一瞬の沈黙。

 だが、
 それは気まずさではない。

「……これで、
 一区切りだな」

 皇帝が言う。

「はい」

「後悔は?」

 その問いに、
 私はすぐに答えられた。

「ありません」

 迷いは、なかった。

「過去を消したいとは、
 思いません」

「ただ――
 そこに留まる理由も、
 もうないだけです」

 皇帝は、
 静かに頷いた。

「強くなったな」

「……いいえ」

 私は、
 首を振る。

「選ぶようになっただけです」

 皇帝は、
 それ以上、何も言わなかった。

 午後。

 私は、
 皇城の外へ出た。

 許可は、
 もう必要ない。

 付き添いも、
 最低限。

 街は、
 いつも通りだ。

 人々は、
 私を特別扱いしない。

 それでいい。

 それが、
 私が望んだ未来だ。

 ふと、
 視線を感じる。

 遠くの建物の影。

 そこに、
 王太子ケーニグセグの姿はなかった。

 けれど――
 “彼の不在”が、
 はっきりと分かる。

 それが、
 すべてだった。

(……もう、
 何も言うことはない)

 許しも、
 憎しみも、
 必要ない。

 ただ、
 関係が終わった。

 それだけ。

 夕暮れ。

 私は、
 新しい執務室に戻る。

 制度監査補佐官としての、
 最初の正式な席。

 机の上には、
 次の案件。

 小さな歪み。
 見過ごされがちな不正。

 だが、
 誰かの未来を、
 確実に左右する。

 私は、
 ペンを取った。

(……私は、
 もう攫われない)

(……選ばされもしない)

 自分で、
 選ぶ。

 それが、
 私の立つ場所。

 窓の外で、
 夜が静かに降りてくる。

 派手な幕引きは、ない。

 歓声も、ない。

 けれど――
 物語は、
 確かにここで終わる。

 そして、
 新しい日常が始まる。

 私は、
 前を向いた。

 それだけで、
 十分だった。


---

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