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第9話「静かで幸せな日常、開始」
しおりを挟む――朝、目覚める。
「……起きたくない」
ふかふかの羽毛布団に包まれたまま、リオネッタはごろりと寝返りを打った。
公爵家の寝具は“見た目の美しさ”重視だったが、ここでは“寝心地”に全振りしている。
人を堕落させる危険な柔らかさだった。
「お嬢様、朝でございます。庭園の朝露が一番綺麗なお時間です」
「起こすタイミングが上品すぎて……罪深いわ、ミーナ」
「お褒めと受け取っておきます」
半分眠ったまま起き上がり、朝の紅茶を一口。
それだけで、リオネッタの頬はゆるんだ。
「この茶葉……ダージリンの春摘み?」
「さすがでございます。伯爵様が特別に取り寄せたもので」
「……あの人、優しすぎて逆に怖いんだけど?」
「お気づきでしたか」
「えっ、それ本気で何かある前提の流れじゃない!? ホラーじゃないよね?」
ミーナがくすくすと笑う。
そのあとは、朝の読書。
昼前には、趣味の刺繍をちくちくと。
昼食は季節のスープと焼きたてのパン。午後はゆるく散歩して、ハーブ園を見つけて大はしゃぎ。
使用人たちも、みな朗らかで、気取らず親切。
夕方になると、執事が「本日の紅茶はこちらになります」と、新作のブレンドを披露。
「これ……薔薇とレモンバームの香り?」
「お見事です。リオネッタ様のための特別配合でございます」
「……わたし、この屋敷に溶け込んでいってない?」
「すでに“伯爵家の象徴”と呼ばれております」
「もう!? はやくない!?」
夜にはクリスと、ゆるやかに“お茶会形式の報告会”。
領地のこと、城下の話題、今日の花の咲き具合などを取り留めなく話す時間――
気づけばそれが、リオネッタの一日の中でいちばんリラックスできる時間になっていた。
「お互い干渉しない契約なのに……どうしてでしょうね。毎日、ちょっとずつ楽しみになってるなんて」
カップを口に運びながら、リオネッタはぽつりとつぶやいた。
「さぁ……どうしてでしょうね」
クリスは静かに微笑んだだけだった。
その横顔を見ながら、リオネッタはふと、心の中でつぶやいた。
(婚約破棄されて、よかった……)
もはや王太子の顔すら、曖昧にしか思い出せない。
代わりに今、日々の紅茶の味や、風の匂い、猫のまるまった姿が、彼女の心を満たしていた。
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