働かないつもりでしたのに、気づけば全部うまくいっていました ――自由に生きる貴族夫人と溺愛旦那様』

鷹 綾

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第19話「何もしない奥様、国境を越える」

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第19話「何もしない奥様、国境を越える」


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 セーラは、朝から嫌な予感しかしなかった。

 理由は簡単だ。  リチャードがやけに機嫌よく紅茶を飲んでいる。

 こういうときの彼は、大抵ろくでもない報告を持ってくる。

 「セーラ」

 ほら、来た。

 「……何ですの」

 「隣国から、正式な使者が来る」

 セーラは、紅茶を吹きかけそうになった。

 「なぜ!?」

 「君に会いたいそうだ」

 「なぜ!?」

 大事なことなので二回言った。


---

 聞けば、話はこうだった。

 最近、商人たちの間で広まっている「暗黙の取引基準」。  強制でも法令でもないのに、不思議と守られ、揉め事が激減している。

 その“発祥地”が、なぜかこの屋敷だと認識されているらしい。

 (私は何も制定してません!!)

 「彼らは、それを“セーラ式”と呼んでいる」

 「やめてくださいませ」

 即座に拒否した。

 「私は、何も式を作っていません」

 「分かっている」

 リチャードは、穏やかに続ける。

 「だが、“作らなかった”こと自体が、思想になっている」

 セーラは、頭を抱えた。


---

 午後。

 隣国の使者は、想像以上に礼儀正しかった。

 年配の外交官で、無駄な装飾のない服装。  だが、その目は鋭い。

 「お会いできて光栄です、セーラ様」

 「こちらこそ……ですが、私は特別なことは何も」

 「承知しております」

 即答だった。

 「だからこそ、お話を伺いたい」

 嫌な流れだ。


---

 「我が国では、常に“最適解”を定めようとしてきました」

 外交官は言う。

 「ですが、貴国では違う。
 誰も正解を定義せず、それでも混乱が起きていない」

 セーラは、少し考えた。

 「……それは、正解が一つではないからですわ」

 「ほう」

 「皆が“自分の責任で決める”なら、他人の答えを奪えません」

 「だから争いが減るのです」

 外交官は、深く息を吐いた。

 「それを、国単位でやれと言われています」

 セーラは、思わず笑った。

 「無理ですわね」

 「やはり?」

 「責任を取りたくない人が多すぎますもの」

 それは、前世で嫌というほど知っている。


---

 使者は、しばらく沈黙した後、頭を下げた。

 「……では、最後に一つだけ」

 「何でしょう」

 「あなたは、なぜそれほど“前に出ない”のですか」

 セーラは、一瞬だけ迷い、正直に答えた。

 「疲れるからですわ」

 空気が止まった。

 「本当に、それだけ?」

 「ええ」

 「責任を背負えば、自由がなくなりますでしょう?」

 「私は、自由に紅茶を飲みたいのです」

 外交官は、やがて苦笑した。

 「……その価値観こそ、我が国には最も足りないものかもしれません」


---

 使者が帰った後。

 セーラは、ソファに倒れ込んだ。

 「……国境、越えましたわよね?」

 「完全に」

 リチャードは即答した。

 「もう、君は“国内の象徴”ではない」

 「聞きたくありません」


---

 夕方。

 屋敷に届いた報告書には、すでに異変があった。

 隣国の商人たちが、自主的に取引条件を見直している。  理由欄には、こう書かれていた。

 ――「セーラ様なら、こう考えるだろうから」

 セーラは、机に突っ伏した。

 「……私、何も言ってません」

 「それが、一番強い」

 リチャードは、淡々と言う。


---

 夜。

 セーラは、ベッドに腰掛けながら呟いた。

 「働かないはずだったのに」

 「働いてはいない」

 「でも、影響力が……」

 リチャードは、彼女の手を取った。

 「君は、選択を奪っていない」

 「指示も命令もしていない」

 「ただ、“余白”を作っただけだ」

 セーラは、静かに息を吐いた。

 (余白が、こんなに怖いものだなんて)


---

 窓の外には、静かな夜。

 セーラは、小さく笑った。

 「……このまま行くと、世界が勝手に変わりますわね」

 「もう、変わり始めている」

 「私は、逃げられます?」

 リチャードは、少し考えてから答えた。

 「君が望むなら、いつでも」

 セーラは、目を閉じた。

 「……明日は、何も起きませんように」

 その願いは、翌朝あっさり裏切られることになるのだが――
 それは、また別の話である。
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