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第32話 名を外しても、関係は消えない
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第32話 名を外しても、関係は消えない
朝の離宮は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。
風が回廊を抜け、木々の葉を揺らす。
誰かを呼ぶ鐘も鳴らない。
それでも、空気は澱んでいなかった。
ミリエラは、自室の机の前で、小さな箱を開けていた。
中に入っているのは、古い木札。
――「聖女ミリエラ」と彫られた名札だ。
公式の場で使われていたもの。
今では、必要のないもの。
「……ずいぶん、長く一緒でしたね」
そう呟き、しばらく指先で縁をなぞる。
捨てるつもりはなかった。
だが、持ち歩く理由もない。
彼女は、そっと箱を閉じ、棚の奥にしまった。
◇
午前中、離宮に数人の来訪者があった。
いずれも、
「聖女に会いに来た」というより、
「ミリエラを知っている人」だった。
「お久しぶりです」
「……お元気そうで」
肩書きは呼ばれない。
形式ばった礼もない。
ただ、再会。
「今日は、
“お願い”はありません」
そう前置きしてから、
近況を話しに来ただけの人もいた。
ミリエラは、頷き、微笑む。
「それなら、
お茶でも飲みましょう」
◇
話題は、些細なものだった。
畑の作物の出来。
街道の修繕。
最近読んだ本。
奇跡も、祈りも、
話題に上らない。
それでも、
時間は心地よく流れた。
◇
「……名前を呼ばれなくなって、
寂しくありませんか?」
帰り際、誰かがそう尋ねた。
ミリエラは、少し考え――
正直に答える。
「最初は、ありました」
そして、続けた。
「でも今は、
名を外した方が、
ちゃんと話せる気がします」
相手は、納得したように笑った。
◇
午後、私は学院で講義を終え、
離宮に立ち寄っていた。
「……今日は、賑やかでしたね」
「はい。
でも、不思議と疲れていません」
ミリエラは、そう言って椅子に腰掛ける。
「名を外したら、
人が離れると思っていました」
「実際は?」
「……残る人は、
ちゃんと残るんですね」
それは、
期待や役割で繋がっていなかった証だった。
◇
同じ頃、王宮。
エドワルド殿下は、
書類の端に書かれた一文を見つめていた。
『聖女ミリエラ』ではなく、
『ミリエラ』とだけ記された報告。
「……名を外した、か」
それは、
力を失ったという意味ではない。
役割を降りたというだけだ。
「……それでも、
関係は続いている」
彼は、静かに息を吐いた。
◇
夕暮れ。
離宮の庭に、長い影が伸びる。
ミリエラは、ベンチに座り、
空の色が変わるのを眺めていた。
「……聖女じゃなくても、
人と話せるんですね」
誰に向けるでもない言葉。
だが、それは確かな実感だった。
◇
名は、役割を示す。
肩書きは、距離を決める。
けれど、
名を外しても消えないものがある。
――関係。
――記憶。
――安心。
それらは、
奇跡がなくても、
役割がなくても、
ちゃんと残る。
ミリエラは、
そのことを、
今日一日で、静かに理解していた。
朝の離宮は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。
風が回廊を抜け、木々の葉を揺らす。
誰かを呼ぶ鐘も鳴らない。
それでも、空気は澱んでいなかった。
ミリエラは、自室の机の前で、小さな箱を開けていた。
中に入っているのは、古い木札。
――「聖女ミリエラ」と彫られた名札だ。
公式の場で使われていたもの。
今では、必要のないもの。
「……ずいぶん、長く一緒でしたね」
そう呟き、しばらく指先で縁をなぞる。
捨てるつもりはなかった。
だが、持ち歩く理由もない。
彼女は、そっと箱を閉じ、棚の奥にしまった。
◇
午前中、離宮に数人の来訪者があった。
いずれも、
「聖女に会いに来た」というより、
「ミリエラを知っている人」だった。
「お久しぶりです」
「……お元気そうで」
肩書きは呼ばれない。
形式ばった礼もない。
ただ、再会。
「今日は、
“お願い”はありません」
そう前置きしてから、
近況を話しに来ただけの人もいた。
ミリエラは、頷き、微笑む。
「それなら、
お茶でも飲みましょう」
◇
話題は、些細なものだった。
畑の作物の出来。
街道の修繕。
最近読んだ本。
奇跡も、祈りも、
話題に上らない。
それでも、
時間は心地よく流れた。
◇
「……名前を呼ばれなくなって、
寂しくありませんか?」
帰り際、誰かがそう尋ねた。
ミリエラは、少し考え――
正直に答える。
「最初は、ありました」
そして、続けた。
「でも今は、
名を外した方が、
ちゃんと話せる気がします」
相手は、納得したように笑った。
◇
午後、私は学院で講義を終え、
離宮に立ち寄っていた。
「……今日は、賑やかでしたね」
「はい。
でも、不思議と疲れていません」
ミリエラは、そう言って椅子に腰掛ける。
「名を外したら、
人が離れると思っていました」
「実際は?」
「……残る人は、
ちゃんと残るんですね」
それは、
期待や役割で繋がっていなかった証だった。
◇
同じ頃、王宮。
エドワルド殿下は、
書類の端に書かれた一文を見つめていた。
『聖女ミリエラ』ではなく、
『ミリエラ』とだけ記された報告。
「……名を外した、か」
それは、
力を失ったという意味ではない。
役割を降りたというだけだ。
「……それでも、
関係は続いている」
彼は、静かに息を吐いた。
◇
夕暮れ。
離宮の庭に、長い影が伸びる。
ミリエラは、ベンチに座り、
空の色が変わるのを眺めていた。
「……聖女じゃなくても、
人と話せるんですね」
誰に向けるでもない言葉。
だが、それは確かな実感だった。
◇
名は、役割を示す。
肩書きは、距離を決める。
けれど、
名を外しても消えないものがある。
――関係。
――記憶。
――安心。
それらは、
奇跡がなくても、
役割がなくても、
ちゃんと残る。
ミリエラは、
そのことを、
今日一日で、静かに理解していた。
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