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第33話 それでも名は、胸の内に残る
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第33話 それでも名は、胸の内に残る
朝の空気は、ひんやりとして澄んでいた。
離宮の庭に立つと、夏の名残と秋の気配が、同時に肺に入ってくる。
ミリエラは、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「……名前って、不思議ですね」
隣にいた私は、黙って頷く。
名を外した日から、しばらくが経った。
呼ばれることは減り、肩書きも使われなくなった。
それでも、彼女の歩みは止まらなかった。
◇
その日、離宮には一人の青年が訪れていた。
地方から来た職人で、王都での仕事を終え、帰郷前に立ち寄ったという。
面会の理由は、明確ではなかった。
「……聖女さまに、
お礼を言いたくて」
そう切り出した青年は、途中で言葉を止め、困ったように眉を下げた。
「あ……すみません。
今は、そう呼ばれないんですよね」
ミリエラは、少し驚き、そして微笑んだ。
「ええ。でも……
気にしなくて大丈夫ですよ」
「……それでも」
青年は、胸の前で拳を握る。
「俺にとっては、
あの日に話を聞いてくれた人が、
聖女さまでした」
奇跡の話ではない。
救われた、という大仰な言葉もない。
ただ、
「あの時、聞いてもらえた」という記憶。
◇
ミリエラは、しばらく黙って青年を見つめ、
それから、静かに口を開いた。
「……ありがとうございます」
それ以上は、言わなかった。
名を訂正もしない。
役割を背負い直すこともしない。
けれど、その一言には、
拒絶も、距離も、含まれていなかった。
青年は、ほっとしたように頭を下げ、
短く近況を話し、やがて帰っていった。
◇
「……いいんですか?」
見送りのあと、私は小声で尋ねた。
「“聖女”って、呼ばれて」
ミリエラは、少し考え、首を横に振る。
「名を外したのは、
縛られないためです」
そして、続けた。
「でも……
人の記憶の中にある名前まで、
消すことはできません」
その声は、落ち着いていた。
◇
午後、彼女は街へ出た。
買い物袋を抱え、
市場の人々と短い言葉を交わす。
「今日は、暑いですね」
「この果物、甘いですよ」
誰も、特別扱いはしない。
誰も、跪かない。
それでも、
視線に、わずかな温度がある。
――覚えている人は、覚えている。
◇
夕方、王宮ではエドワルド殿下が、古い名簿を眺めていた。
歴代の聖女の名。
その横に、短い注記。
「……名が残る者と、
役割だけが残る者は、違う」
誰に言うでもなく、そう呟く。
名を外しても、
記憶に残る人間がいる。
それは、
制度では生み出せないものだった。
◇
夜。
離宮の小さな机で、
ミリエラは日誌を開いた。
『今日は、
“聖女”と呼ばれた』
一行空けて、続ける。
『でも、
戻りたいとは思わなかった』
ペンを置き、
彼女は静かに微笑んだ。
◇
名は、外せる。
役割も、脱げる。
それでも、
人の胸の内に残る名は、
奪うことも、否定することもできない。
大切なのは、
その名に縛られないこと。
ミリエラは、
ようやくそれを理解し、
それを許せる場所に立っていた。
名は、彼女を呼び戻さない。
ただ、
彼女が歩いてきた道を、
静かに照らすだけだった。
朝の空気は、ひんやりとして澄んでいた。
離宮の庭に立つと、夏の名残と秋の気配が、同時に肺に入ってくる。
ミリエラは、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「……名前って、不思議ですね」
隣にいた私は、黙って頷く。
名を外した日から、しばらくが経った。
呼ばれることは減り、肩書きも使われなくなった。
それでも、彼女の歩みは止まらなかった。
◇
その日、離宮には一人の青年が訪れていた。
地方から来た職人で、王都での仕事を終え、帰郷前に立ち寄ったという。
面会の理由は、明確ではなかった。
「……聖女さまに、
お礼を言いたくて」
そう切り出した青年は、途中で言葉を止め、困ったように眉を下げた。
「あ……すみません。
今は、そう呼ばれないんですよね」
ミリエラは、少し驚き、そして微笑んだ。
「ええ。でも……
気にしなくて大丈夫ですよ」
「……それでも」
青年は、胸の前で拳を握る。
「俺にとっては、
あの日に話を聞いてくれた人が、
聖女さまでした」
奇跡の話ではない。
救われた、という大仰な言葉もない。
ただ、
「あの時、聞いてもらえた」という記憶。
◇
ミリエラは、しばらく黙って青年を見つめ、
それから、静かに口を開いた。
「……ありがとうございます」
それ以上は、言わなかった。
名を訂正もしない。
役割を背負い直すこともしない。
けれど、その一言には、
拒絶も、距離も、含まれていなかった。
青年は、ほっとしたように頭を下げ、
短く近況を話し、やがて帰っていった。
◇
「……いいんですか?」
見送りのあと、私は小声で尋ねた。
「“聖女”って、呼ばれて」
ミリエラは、少し考え、首を横に振る。
「名を外したのは、
縛られないためです」
そして、続けた。
「でも……
人の記憶の中にある名前まで、
消すことはできません」
その声は、落ち着いていた。
◇
午後、彼女は街へ出た。
買い物袋を抱え、
市場の人々と短い言葉を交わす。
「今日は、暑いですね」
「この果物、甘いですよ」
誰も、特別扱いはしない。
誰も、跪かない。
それでも、
視線に、わずかな温度がある。
――覚えている人は、覚えている。
◇
夕方、王宮ではエドワルド殿下が、古い名簿を眺めていた。
歴代の聖女の名。
その横に、短い注記。
「……名が残る者と、
役割だけが残る者は、違う」
誰に言うでもなく、そう呟く。
名を外しても、
記憶に残る人間がいる。
それは、
制度では生み出せないものだった。
◇
夜。
離宮の小さな机で、
ミリエラは日誌を開いた。
『今日は、
“聖女”と呼ばれた』
一行空けて、続ける。
『でも、
戻りたいとは思わなかった』
ペンを置き、
彼女は静かに微笑んだ。
◇
名は、外せる。
役割も、脱げる。
それでも、
人の胸の内に残る名は、
奪うことも、否定することもできない。
大切なのは、
その名に縛られないこと。
ミリエラは、
ようやくそれを理解し、
それを許せる場所に立っていた。
名は、彼女を呼び戻さない。
ただ、
彼女が歩いてきた道を、
静かに照らすだけだった。
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