『婚約破棄されたので、元婚約者の「理想の聖女」を育ててみた結果』

鷹 綾

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第34話 境界線は、こちらで引く

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第34話 境界線は、こちらで引く

 離宮の朝は、最近とても穏やかだ。

 鳥の声が遠くで混じり、
 回廊を抜ける風が、カーテンを静かに揺らす。

 ミリエラは窓辺で湯気の立つ茶を手にしながら、
 その穏やかさを壊さないように、一日の始まりを受け取っていた。

 ――けれど。

 穏やかさは、いつも外から壊される。

    ◇

「面会の申し込み、ですか?」

 侍女の声は慎重だった。

「はい。
 “旧聖女庁関係者”を名乗っています」

 その言葉を聞いた瞬間、
 ミリエラは、わずかに指先を止めた。

 懐かしさではない。
 怒りでもない。

 ――警戒、だ。

「人数は?」

「二名です。
 正式な要請ではありませんが……
 “話がある”と」

 ミリエラは、少し考えた。

    ◇

 かつてなら、
 彼女は迷っていただろう。

 断っていいのか。
 聞く義務があるのではないか。
 “聖女”として、応じるべきではないか。

 だが今は違う。

「……お通しください」

 ただし、と言葉を添える。

「この離宮の客として。
 それ以上でも以下でもありません」

 侍女は一瞬驚いたが、
 すぐに深く頷いた。

    ◇

 応接間に現れたのは、
 かつて見覚えのある顔だった。

 老いた司祭と、
 その補佐をしていた男。

「お久しぶりです、ミリエラ様」

 かつての呼び方。

 ミリエラは、微笑みもせず、
 静かに口を開いた。

「今は、
 その呼び方は必要ありません」

 空気が、ぴしりと張る。

    ◇

「……失礼しました」

 司祭は咳払いをし、
 姿勢を正した。

「本日は、
 “お願い”があって参りました」

 ミリエラは、すぐには返事をしなかった。

 代わりに、問いを返す。

「それは、
 “聖女”にですか?」

 沈黙。

「……いえ」

 司祭は、苦しそうに言った。

「あなた個人に、です」

    ◇

 内容は、予想通りだった。

 人手不足。
 信仰の低下。
 象徴の不在。

「戻っていただければ、
 形だけでも構わないのです」

 その言葉に、
 ミリエラの目が、わずかに細くなる。

「……形、ですか」

「ええ。
 人は、象徴を必要とします」

    ◇

 ミリエラは、ゆっくりと息を吐いた。

「必要なのは、
 “象徴”ではありません」

 声は、静かだ。

「依存です」

 二人は、言葉を失った。

    ◇

「私は、
 戻らないと決めています」

 はっきりとした声。

「そして、
 それは交渉事項ではありません」

 司祭が、焦ったように言う。

「ですが……
 あなたが拒めば、
 混乱が――」

「それは、
 私の責任ではありません」

 その一言は、
 冷たくもなく、
 突き放すものでもなかった。

 ただ、明確だった。

    ◇

「境界線は、
 こちらで引きます」

 ミリエラは、視線をまっすぐ向ける。

「越えようとしないでください」

 それは、
 怒りではない。

 自分を守るための、
 当たり前の宣言だった。

    ◇

 二人は、何も言えず、
 やがて席を立った。

 扉が閉じたあと、
 応接間には、静寂が戻る。

    ◇

「……お疲れではありませんか?」

 侍女が、心配そうに尋ねる。

 ミリエラは、少し驚き、
 それから首を振った。

「いいえ」

 そして、微笑む。

「むしろ、
 楽になりました」

    ◇

 夕方、庭に出た彼女は、
 花の手入れをしながら思う。

 優しさと、
 従順さは、違う。

 受け入れることと、
 許すことも、違う。

 そして――
 境界線を引くことは、
 冷酷さではない。

    ◇

 ミリエラは、
 今日、はっきりと線を引いた。

 もう、
 誰かの期待の中へ、
 引き戻されないように。

 その線の内側で、
 彼女は、穏やかに息をする。

 それが、
 今の彼女の生き方だった。
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