『婚約破棄されたので、元婚約者の「理想の聖女」を育ててみた結果』

鷹 綾

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第35話 選ばれない自由

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第35話 選ばれない自由

 離宮の朝は、澄みきっていた。

 昨夜の雨が地面を洗い、
 庭の石畳は淡く光っている。
 空気は冷たく、肺の奥まで静けさが届くようだった。

 ミリエラは回廊を歩きながら、
 昨日引いた“線”の感触を思い出していた。

 不安は、ない。
 後悔も、ない。

 ただ、少しだけ――
 世界が広くなった気がしていた。

    ◇

 その日の午前、
 王宮からの正式な使者が訪れた。

 紋章入りの外套。
 整えられた所作。
 礼儀正しさの裏に、明確な用件がある。

「ミリエラ様」

 呼び方は、慎重に選ばれていた。
 “聖女”ではない。

「本日は、
 確認のために参りました」

 確認、という言葉に、
 ミリエラは小さく頷く。

    ◇

「今後、
 王宮および宗教機関から、
 あなたを“象徴”として扱うことはありません」

 淡々とした宣言。

「また、
 その立場に戻る意思がないことも、
 正式に記録されます」

 それは、
 解放であり、
 同時に――切り離しでもあった。

「よろしいですか?」

 最後に、念を押される。

 ミリエラは、迷わなかった。

「はい」

    ◇

 書類に署名を終えたあと、
 使者は一礼して去っていった。

 応接間に残った静けさは、
 昨日までとは、少し違う。

 “戻れない”のではない。
 “戻らない”と、
 世界に示された静けさだ。

    ◇

「……本当に、よろしいのですか?」

 侍女が、控えめに尋ねる。

 ミリエラは、窓の外を見ながら答えた。

「選ばれることは、
 確かに誇りでした」

 過去を否定しない声。

「でも、
 選ばれ続ける人生は……
 私には、重すぎました」

    ◇

 午後、彼女は街へ出た。

 護衛も、儀礼もない。
 ただの一人の女性として。

 市場の一角で、
 子どもたちが言い争っているのを見かけた。

「ずるい! お前ばっかり選ばれて!」

「だって、早かったんだ!」

 ミリエラは、少し考え、
 しゃがみ込んで声をかける。

「順番にしませんか」

 子どもたちは驚き、
 それから渋々、うなずいた。

    ◇

 立ち上がると、
 隣にいた年配の女性が微笑む。

「ありがとうございます」

 ミリエラは、首を横に振った。

「特別なことは、
 していませんよ」

 その言葉は、
 以前よりも、自然に口から出た。

    ◇

 夕暮れ。

 離宮に戻ったミリエラは、
 庭のベンチに腰掛ける。

 空は茜色に染まり、
 境界線の向こうに、王都の塔が見える。

 ――選ばれない。

 それは、
 見捨てられることではない。

 期待されないことでも、
 価値がなくなることでもない。

    ◇

 選ばれないからこそ、
 自分で選べる。

 どこへ行くか。
 誰と話すか。
 何を背負わないか。

 それは、
 静かで、
 確かな自由だった。

    ◇

 ミリエラは、目を閉じ、
 今日一日の音を思い返す。

 市場のざわめき。
 子どもの声。
 紙にペンを走らせる音。

 どれも、
 奇跡ではない。

 けれど――
 彼女の人生だった。

    ◇

 選ばれない自由は、
 拍手も、賛美も伴わない。

 だが、
 誰かに差し出すための人生を終え、
 自分の足で立つための余白をくれる。

 ミリエラは、
 その余白に、
 ようやく呼吸を通した。

 それでいい。
 それがいい。

 彼女は、
 今日も、
 誰にも選ばれないまま――
 自分の一日を、選び終えた。
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