『婚約破棄されたので、元婚約者の「理想の聖女」を育ててみた結果』

鷹 綾

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第36話 静かな肯定

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第36話 静かな肯定

 朝の光が、離宮の廊下をやわらかく満たしていた。

 窓から差し込む陽は、派手さはないが確かで、
 床に落ちる影の輪郭を、少しずつ押し広げていく。

 ミリエラは、その光の中を歩きながら、
 胸の奥に残っていた小さな違和感に気づいていた。

 ――迷い、ではない。
 ――不安でもない。

 ただ、問いだった。

    ◇

「……何か、足りない気がして」

 朝食のあと、彼女はぽつりと漏らした。

 侍女は一瞬だけ考え、
 柔らかく首をかしげる。

「足りない、ですか?」

「はい。でも、
 何が足りないのかは分かりません」

 それは、喪失感に似ているが、
 失ったものが思い当たらない、不思議な感覚だった。

    ◇

 午前中、ミリエラは書庫に籠もった。

 以前は、祈祷文や記録を読むための場所。
 今は、ただ本を読むための場所だ。

 物語集を一冊手に取り、
 ページをめくる。

 英雄譚。
 救済の話。
 選ばれし者の物語。

 どれも、かつては自分の足元にあった世界。

    ◇

「……私は、
 この物語の続きを、
 もう歩かないんですね」

 声に出すと、
 その事実は驚くほど静かに、胸に収まった。

 悲しくもない。
 悔しくもない。

 ただ、終わった、という感触。

    ◇

 午後、庭仕事をしていると、
 隣家の老夫婦が声をかけてきた。

「今日は、いい天気ですね」

「ええ、本当に」

 それだけの会話。
 肩書きも、役割もない。

 それでも、
 言葉の行き来は、確かに成立していた。

    ◇

 夕方、ミリエラは気づく。

 “足りない”と感じていたものは、
 何かを失ったからではない。

 ――誰かに、
 自分の選択を肯定してもらう声。

    ◇

 かつては、
 祈りが叶えば称えられ、
 叶わなければ責められた。

 常に、
 外からの評価が、
 自分の価値を決めていた。

 だが今は――
 それが、ない。

    ◇

 ミリエラは、庭のベンチに座り、
 静かに目を閉じた。

「……私は、
 戻らないと選んだ」

 誰に聞かせるでもなく。

「それは、
 間違いじゃない」

 言葉は、風に溶ける。

    ◇

 拍手もない。
 称賛もない。
 けれど、否定もない。

 ただ、
 自分自身が、自分に向けて頷く感覚。

    ◇

 その瞬間、
 胸の奥にあった違和感が、
 静かに消えた。

 足りなかったのは、
 答えではない。

 ――肯定だった。

    ◇

 夜、部屋に戻ったミリエラは、
 灯りを落とし、窓辺に立つ。

 王都の灯が、遠くに瞬いている。

 選ばれない自由。
 背負わない人生。

 それを選んだ自分を、
 誰よりも先に、
 自分自身が認めてやる。

    ◇

「……これでいい」

 その一言は、
 祈りではなかった。

 誓いでもない。

 ただの、
 静かな肯定。

 ミリエラは、
 その肯定を胸に、
 今日という一日を、
 穏やかに終わらせた。
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