『婚約破棄されたので、元婚約者の「理想の聖女」を育ててみた結果』

鷹 綾

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第37話 それでも、誰かのために

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第37話 それでも、誰かのために

 朝の離宮に、久しぶりの慌ただしさが戻ってきていた。

 回廊を早足で進む侍女の靴音。
 門の外で交わされる、抑えた声。
 空気が、ほんの少しだけ張りつめている。

 ミリエラは、その変化に気づきながらも、慌てなかった。

 ――これは、呼び戻される気配ではない。
 もっと、現実的なざわめきだ。

    ◇

「近隣の村で、病が出ています」

 報告は簡潔だった。

「原因は分かっておらず、
 王都の医師団が向かっていますが……
 人手が足りないと」

 侍女は言葉を選びながら、
 視線を伏せる。

「……“奇跡”を求める声も、
 出始めています」

 その一言で、意味は十分だった。

    ◇

 ミリエラは、しばらく黙っていた。

 胸の奥で、
 何かがざわつく。

 恐れではない。
 義務感でもない。

 ――記憶だ。

 かつて、同じような状況で、
 彼女は「聖女」として立たされていた。

    ◇

「……私は、
 行く義務はありませんね」

 確認するように、そう言う。

 侍女は、はっとして首を振る。

「はい。
 まったく、ありません」

 それは、はっきりとした否定だった。

    ◇

 ミリエラは、窓の外を見る。

 遠くに見える街道。
 その先にある村。

 “戻らない”と決めた。
 境界線も、引いた。

 それでも――
 心が、静かに動いている。

    ◇

「……でも」

 彼女は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「“聖女として”ではなく、
 “一人の人間として”なら……
 話は、別です」

 侍女が、息を呑む。

    ◇

「医師団の補助として、
 できることを手伝います」

「奇跡は、起こしません」

「期待にも、応えません」

 一つひとつ、
 線をなぞるように条件を並べる。

「それでもよければ、
 行きます」

    ◇

 その場に、静寂が落ちた。

 誰かが、
 「それで十分だ」と呟いた。

    ◇

 準備は、簡素だった。

 特別な衣装はない。
 儀式もない。

 ただ、
 動きやすい服と、
 最低限の薬草と、
 記録用のノート。

    ◇

 街道を進む馬車の中で、
 ミリエラは揺れを感じながら考える。

 これは、
 過去への後退ではない。

 “選ばれない自由”を、
 手放す行為でもない。

    ◇

 彼女は、
 誰かのために生きることを、
 一度、やめた。

 だが――
 誰かを助けることまで、
 捨てたわけではない。

    ◇

 村に近づくと、
 空気が変わった。

 不安。
 疲労。
 期待と、恐れが入り混じった匂い。

 人々の視線が、
 一瞬、ミリエラに集まる。

    ◇

「……聖女さま?」

 誰かが、そう囁いた。

 ミリエラは、
 はっきりと首を横に振った。

「違います」

 だが、歩みは止めない。

「ただの、
 手伝いに来た人です」

    ◇

 医師団と合流し、
 彼女は黙々と動いた。

 水を運び、
 記録を取り、
 患者の話を聞く。

 祈らない。
 祝詞も唱えない。

 それでも、
 人々は少しずつ落ち着いていった。

    ◇

 夜。

 簡素な宿舎で、
 ミリエラは深く息をつく。

 身体は疲れている。
 だが、心は不思議と静かだった。

    ◇

 “聖女”ではない。
 “象徴”でもない。

 それでも、
 目の前の人に向き合うことはできる。

    ◇

 誰かのために動くことと、
 誰かに縛られることは、違う。

 その違いを、
 彼女は今、
 自分の足で確かめていた。

    ◇

 ミリエラは、
 灯りを消しながら、
 小さく呟く。

「……これも、
 私の選択だ」

 それは、
 過去に戻らないための一歩であり、
 未来へ進むための、
 確かな一歩だった。
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