『婚約破棄されたので、元婚約者の「理想の聖女」を育ててみた結果』

鷹 綾

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第40話 それで、私はここにいる

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第40話 それで、私はここにいる

 離宮の朝は、いつもより少しだけ静かだった。

 帰還の翌日。
 特別な予定も、面会の申し込みもない。
 けれど、空気は澄み、世界はきちんと動いている。

 ミリエラは回廊を歩きながら、
 自分の足音が、確かにここにあることを感じていた。

    ◇

 庭に出ると、
 手入れ途中の花壇が目に入る。

 昨日は触れなかった場所。
 今日、続きをする場所。

 彼女は膝をつき、
 土に触れた。

 冷たく、重く、
 そして、現実的だ。

    ◇

 思い返せば、
 “聖女”だった頃の時間は、
 いつも誰かの期待の中にあった。

 祈れば応える。
 応えられなければ責められる。

 選ばれ、掲げられ、
 代わりに――
 自分の居場所を、
 自分で決めることはできなかった。

    ◇

 けれど今は、違う。

 誰も、
 彼女を呼びに来ない。

 誰も、
 奇跡を求めない。

    ◇

「……寂しくは、ありませんか?」

 庭仕事を手伝っていた侍女が、
 ふと尋ねた。

 ミリエラは、少し考え、
 正直に答える。

「寂しい、瞬間はあります」

 それは、否定しない。

「でも……
 寂しさがある、ということは」

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

「ここに、
 私自身がいる、ということですから」

    ◇

 昼過ぎ、
 一通の手紙が届いた。

 村からの簡素な礼状。
 医師団宛のものだが、
 端に、小さく追記がある。

『ミリエラさんへ
 また会えたら、うれしいです』

 名前だけ。
 肩書きはない。

    ◇

 彼女は、手紙を胸に当て、
 静かに息を吐いた。

 戻る約束はしない。
 再会を保証もしない。

 それでも――
 “会えたら”という距離が、
 今の彼女には、ちょうどよかった。

    ◇

 夕暮れ。

 離宮の塔から、
 王都の明かりが見える。

 そこは、
 かつての居場所。

 今は、
 戻らないと決めた場所。

    ◇

 だが、
 それを否定する気持ちは、
 もうなかった。

 過去は、
 彼女を形作った。

 けれど、
 未来を決めるものではない。

    ◇

 ミリエラは、
 ベンチに腰掛け、
 空が夜に変わるのを眺める。

 選ばれなかった。
 象徴を降りた。
 奇跡を手放した。

 それでも――
 生きている。

    ◇

 誰かのために動き、
 自分のために戻り、
 期待の外側で、
 人と関わる。

 それは、
 小さくて、
 確かで、
 奪われない生き方。

    ◇

「……それで、私はここにいる」

 その言葉は、
 結論でも、
 宣言でもない。

 ただの、事実だった。

    ◇

 夜風が、髪を揺らす。

 ミリエラは、
 目を閉じ、
 今日という一日を、
 静かに受け取る。

 もう、
 誰かに選ばれなくていい。

 もう、
 戻る場所を指示されなくていい。

    ◇

 彼女は、
 ここにいる。

 それだけで、
 充分だった。

――完――
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