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第五話 はじめての違和感
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第五話 はじめての違和感
王宮の朝は、いつもなら静かに整っている。
侍女たちは決められた時刻に廊下を行き交い、侍従たちは滞りなく書類を運び、厨房ではその日の献立に合わせて火が入る。華やかに見える王宮も、実際には無数の手配と確認の上に成り立っている。昨日と同じものが今日も同じように届くこと。それは当たり前ではなく、誰かが絶えず整え続けている結果だった。
だが、その日の王宮は朝から妙だった。
最初に気づいたのは、王太子宮の厨房付きの料理人だった。
「……まだ来ないのか?」
若い下働きが、搬入口の方を何度も気にしながら答える。
「はい。朝一番で届くはずの果物籠が、まだ……」
「昨日のうちに確認したんだろうな」
「しました。いつも通りのお返事でした」
料理人は眉をひそめた。
王太子の朝食には、季節ごとの果物が必ず数種添えられる。今の時期なら南方から届く柑橘、砂糖漬けの木の実、上等な葡萄酒で煮た林檎。どれも王族の食卓としては当然の品だ。けれど当然であるはずのものが、今朝に限って届かない。
「代わりはあるのか」
「保管庫の分だけなら、なんとか……ただ、見栄えが」
料理人は舌打ちを呑み込んだ。
見栄えが悪い。つまり、いつもなら王太子の朝食に出すような質ではないということだ。だが他に選択肢はなかった。
その頃、別の場所でも似たような事態が起きていた。
王太子宮の衣装室では、仕立て係の女が青ざめた顔で注文控えを見つめている。
「うそでしょう……」
「どうしたの?」
先輩の女官が覗き込む。
「殿下が今夜お召しになる礼装用の飾緒です。仕立て屋から、納品が遅れると……」
「遅れる? 王太子のご注文でしょう?」
「それが、優先枠の確認が取れないと」
先輩女官は眉を寄せた。
「優先枠?」
「いつもは、ヴァルモン公爵家から紹介のある案件として先に回してくださっていたそうです。でも今朝になって、その扱いでは受けられないって……」
言い終わらぬうちに、二人のあいだに重い沈黙が落ちる。
王太子の衣装ひとつに、なぜ公爵家の名前が関わるのか。疑問はもっともだった。だが、王宮勤めが長い者ほど知っている。王族の名だけで何もかもが最上扱いになるわけではない。誰がどこへ口を利き、どの家が信用を添え、どの商会が損なく動ける形を整えているか。その積み重ねがあってはじめて、“当然のように間に合う”が成立するのだ。
そして、その“当然”の一部が今朝から崩れ始めていた。
王太子私室に続く居間でも、空気は昨日までとは違っていた。
卓上には朝食が並んでいる。見た目だけなら、いつも通りと言えなくもない。温かなパン、卵料理、焼いた肉、香りの立つ紅茶。だが、注意して見れば分かる。果物が少ない。焼き菓子の皿が簡素だ。添えられた花も、普段より見劣りする。
エドガーはそこまで気にしていなかったが、セラフィナは違った。
彼女は王太子のそばに座りながら、そっと卓上を見渡す。
昨夜の余韻が残っているはずだった。婚約破棄が公に宣言され、自分は王太子の隣に立った。今日からは、もう以前とは違う。誰もが自分を新しい王太子妃候補として見る。そう信じていた。
なのに、朝から妙だった。
出される茶器は確かに上等だが、どこか揃い方がちぐはぐで、花は明らかに急ごしらえだった。細かなことに気づく性質ではないセラフィナでも、なんとなく落ち着かなさを覚える程度には。
「殿下」
「何だ」
「今朝は、少し静かですのね」
「静か?」
エドガーはパンをちぎりながら顔を上げた。
「ええ。皆さま……何だか、変ではありません?」
その言葉どおりだった。侍女も侍従も、表向きはいつも通りに仕えている。けれど必要以上の言葉を発しない。顔を上げない。視線を合わせてもすぐ逸らす。昨夜までは少なくとも王太子の機嫌に合わせて笑みを作っていた者たちが、今朝は淡々と職務だけをこなしている。
エドガーは鼻で笑った。
「昨夜の件で気を遣っているだけだろう」
「そう、でしょうか」
「当然だ。婚約破棄の翌日なのだぞ。少しは騒がしくもなる」
そう言い切るが、実のところ、エドガー自身も今朝の空気の鈍さには気づいていた。ただ、それを不穏な兆しとは認めたくなかっただけだ。
そこへ、居間の外で控えていた侍従が入ってきた。
「殿下」
「今度は何だ」
「今夜の小夜会について、確認がございます」
エドガーは面倒そうに手を振る。
「言え」
「装飾布の一部が届かず、庭園側の飾り付けが予定通りには整わぬ見込みです。また、注文していた菓子類の半数が本日中の納品は難しいと」
セラフィナが目を丸くした。
「えっ……」
エドガーは露骨に顔をしかめる。
「またそれか。昨日から同じ話ばかりだな」
「申し訳ございません。しかし、代替の品も質が落ちるため、規模を縮小いただくか――」
「縮小だと?」
エドガーは声を荒らげた。
「私の顔を潰せと言うのか」
「そのようなつもりでは……」
「なら黙って何とかしろ。王太子の小夜会だぞ」
侍従は頭を下げたまま動かない。
「……何だ、その顔は」
「すでに、できる限り手は尽くしております」
言い方は丁寧だったが、これ以上は無理だと言っているのと同じだった。
エドガーの機嫌が、目に見えて悪くなる。
「役立たずめ」
吐き捨てると、侍従は一礼して下がった。
その背中を見送りながら、セラフィナはそっと唇を噛む。
小夜会は、本来なら自分のためのものだった。昨夜の“勝利”の延長として、親しい者たちだけを集め、やんわりと新しい立場を匂わせる。そういう晴れやかな場になるはずだったのに、朝から聞こえるのは届かない、足りない、間に合わないという話ばかりだ。
「殿下……」
「心配するな」
エドガーは不機嫌なまま言う。
「多少手違いがあっても、大勢に影響はない」
だがその言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
王宮の会計局でも、朝からひそやかなざわめきが広がっていた。
台帳の前に座る書記官が、繰り返し同じ欄を見直している。
「おかしい」
「どこがです」
隣の書記官が問うと、彼は帳面を指で叩いた。
「これまで王太子宮付きで後払い扱いにしていた品のいくつかが、本日付で確認保留になっている」
「未払い、ということですか」
「いや、そうじゃない。これまでは問題なく通っていた。だが、支払い保証として添えられていた紹介枠が消えている」
「紹介枠?」
「ヴァルモン公爵家だ」
その名に、隣の書記官が息を呑む。
「では昨夜の件が……」
「たぶん、そうだろうな」
彼は低く言った。
「婚約破棄そのものより、そちらの方が厄介だ」
噂は王宮の中でもすでに駆け巡っていた。王太子が卒業舞踏会で婚約者を切り捨て、義妹を庇ったこと。それ自体は華やかな醜聞として消費できる。だが、問題はその先だ。王太子が自ら切った相手が、どれほど多くの実務と信用を握っていたか、分かる者には分かってしまう。
「まさか、殿下はご存じなかったのか」
「知っていてあんな真似をしたなら、よほどの愚か者だ」
「知らずにやったなら?」
書記官は乾いた笑いを漏らした。
「それも、たいがいだ」
昼前になるころには、違和感はさらに広がっていた。
王妃宮へ届けられるはずの上等な布が遅れ、近衛の装備点検用に回される補修品の数が合わず、厨房では追加注文の返事が鈍い。どれも一つひとつは致命傷ではない。だが小さな棘のように、あちこちへ刺さり始めている。
そのすべてが、“昨日までは通っていたもの”だった。
王宮という場所は巨大だ。だからこそ、小さな遅れや不足はすぐには崩壊にならない。代わりを探し、順番をずらし、どこかにしわ寄せを送って何とか回す。
だが、それは裏を返せば、誰かが無理を背負って埋めているということでもある。
そして、その無理は長く続かない。
昼過ぎ、エドガーのもとにはまた新しい報告が届いた。
今度は、彼が個人的に贔屓にしていた宝飾商からだった。
「次回以降の注文につきましては、従来と同条件でのお受けが難しく――」
読み上げる侍従の声を遮って、エドガーが机を叩く。
「またそれか!」
近くの燭台が揺れた。
「どいつもこいつも、申し合わせたように!」
侍従は黙って頭を下げる。
エドガーは苛立ちのまま歩き回った。
「結局、エルシェナだ。あの女が裏で糸を引いているに決まっている。婚約破棄された腹いせに、細かいところを止めて私を困らせているだけだ」
その言葉を、セラフィナはただ聞いていた。
最初はそう思いたかった。意地悪な姉が嫌がらせをしているだけ。そう考えれば、自分たちはまだ正しい側に立っていられる。
けれど、どうも違う。
もし本当にただの嫌がらせなら、なぜこんなにも多くの場所で、当たり前のように通っていたものが一斉に鈍るのだろう。なぜ商人たちも文官たちも、あれほど困った顔をするのだろう。
セラフィナは初めて、うっすらとした寒気を覚えた。
昨夜、自分は勝ったと思った。
姉の婚約者を奪い、姉の立場を壊し、ついに王太子の隣に立てたのだと。
なのに、その翌日から周囲の空気は祝福どころか、奇妙に冷えていく。
誰もあからさまには何も言わない。けれどその沈黙の中に、「何かまずいことが起きている」という気配だけが濃く積もっていく。
エドガーはなおも苛立っていた。
「今夜の小夜会は予定通り開く。いいな」
「ですが、殿下」
「できる範囲で整えれば十分だ!」
怒声が響き、侍従たちは一斉に頭を下げた。
誰も逆らわない。だが誰の表情にも、もう昨日までのような気楽さはなかった。
その夜、小夜会は確かに開かれた。
けれど規模は明らかに縮み、並んだ菓子は以前より貧相で、飾られた花も少なく、招かれた客の数も予定より減った。招待を受けていたはずの何人かは、急な都合を理由に姿を見せなかった。
エドガーはそれでも笑い、王太子らしく振る舞おうとした。
セラフィナも、なるべく上品に微笑んだ。
だが、どこか無理があった。
華やかさは形だけで、場の底にはうっすらとした不安が沈んでいる。
その不安の正体を、エドガーはまだ認めない。
セラフィナも、まだ認めきれない。
ただ二人とも、昨夜までにはなかった感覚だけは覚えていた。
これは、ただの意地悪ではない。
何かが、確かに崩れ始めている。
そしてその崩れ方は、思っていたよりずっと静かで、ずっと深い。
王宮の朝は、いつもなら静かに整っている。
侍女たちは決められた時刻に廊下を行き交い、侍従たちは滞りなく書類を運び、厨房ではその日の献立に合わせて火が入る。華やかに見える王宮も、実際には無数の手配と確認の上に成り立っている。昨日と同じものが今日も同じように届くこと。それは当たり前ではなく、誰かが絶えず整え続けている結果だった。
だが、その日の王宮は朝から妙だった。
最初に気づいたのは、王太子宮の厨房付きの料理人だった。
「……まだ来ないのか?」
若い下働きが、搬入口の方を何度も気にしながら答える。
「はい。朝一番で届くはずの果物籠が、まだ……」
「昨日のうちに確認したんだろうな」
「しました。いつも通りのお返事でした」
料理人は眉をひそめた。
王太子の朝食には、季節ごとの果物が必ず数種添えられる。今の時期なら南方から届く柑橘、砂糖漬けの木の実、上等な葡萄酒で煮た林檎。どれも王族の食卓としては当然の品だ。けれど当然であるはずのものが、今朝に限って届かない。
「代わりはあるのか」
「保管庫の分だけなら、なんとか……ただ、見栄えが」
料理人は舌打ちを呑み込んだ。
見栄えが悪い。つまり、いつもなら王太子の朝食に出すような質ではないということだ。だが他に選択肢はなかった。
その頃、別の場所でも似たような事態が起きていた。
王太子宮の衣装室では、仕立て係の女が青ざめた顔で注文控えを見つめている。
「うそでしょう……」
「どうしたの?」
先輩の女官が覗き込む。
「殿下が今夜お召しになる礼装用の飾緒です。仕立て屋から、納品が遅れると……」
「遅れる? 王太子のご注文でしょう?」
「それが、優先枠の確認が取れないと」
先輩女官は眉を寄せた。
「優先枠?」
「いつもは、ヴァルモン公爵家から紹介のある案件として先に回してくださっていたそうです。でも今朝になって、その扱いでは受けられないって……」
言い終わらぬうちに、二人のあいだに重い沈黙が落ちる。
王太子の衣装ひとつに、なぜ公爵家の名前が関わるのか。疑問はもっともだった。だが、王宮勤めが長い者ほど知っている。王族の名だけで何もかもが最上扱いになるわけではない。誰がどこへ口を利き、どの家が信用を添え、どの商会が損なく動ける形を整えているか。その積み重ねがあってはじめて、“当然のように間に合う”が成立するのだ。
そして、その“当然”の一部が今朝から崩れ始めていた。
王太子私室に続く居間でも、空気は昨日までとは違っていた。
卓上には朝食が並んでいる。見た目だけなら、いつも通りと言えなくもない。温かなパン、卵料理、焼いた肉、香りの立つ紅茶。だが、注意して見れば分かる。果物が少ない。焼き菓子の皿が簡素だ。添えられた花も、普段より見劣りする。
エドガーはそこまで気にしていなかったが、セラフィナは違った。
彼女は王太子のそばに座りながら、そっと卓上を見渡す。
昨夜の余韻が残っているはずだった。婚約破棄が公に宣言され、自分は王太子の隣に立った。今日からは、もう以前とは違う。誰もが自分を新しい王太子妃候補として見る。そう信じていた。
なのに、朝から妙だった。
出される茶器は確かに上等だが、どこか揃い方がちぐはぐで、花は明らかに急ごしらえだった。細かなことに気づく性質ではないセラフィナでも、なんとなく落ち着かなさを覚える程度には。
「殿下」
「何だ」
「今朝は、少し静かですのね」
「静か?」
エドガーはパンをちぎりながら顔を上げた。
「ええ。皆さま……何だか、変ではありません?」
その言葉どおりだった。侍女も侍従も、表向きはいつも通りに仕えている。けれど必要以上の言葉を発しない。顔を上げない。視線を合わせてもすぐ逸らす。昨夜までは少なくとも王太子の機嫌に合わせて笑みを作っていた者たちが、今朝は淡々と職務だけをこなしている。
エドガーは鼻で笑った。
「昨夜の件で気を遣っているだけだろう」
「そう、でしょうか」
「当然だ。婚約破棄の翌日なのだぞ。少しは騒がしくもなる」
そう言い切るが、実のところ、エドガー自身も今朝の空気の鈍さには気づいていた。ただ、それを不穏な兆しとは認めたくなかっただけだ。
そこへ、居間の外で控えていた侍従が入ってきた。
「殿下」
「今度は何だ」
「今夜の小夜会について、確認がございます」
エドガーは面倒そうに手を振る。
「言え」
「装飾布の一部が届かず、庭園側の飾り付けが予定通りには整わぬ見込みです。また、注文していた菓子類の半数が本日中の納品は難しいと」
セラフィナが目を丸くした。
「えっ……」
エドガーは露骨に顔をしかめる。
「またそれか。昨日から同じ話ばかりだな」
「申し訳ございません。しかし、代替の品も質が落ちるため、規模を縮小いただくか――」
「縮小だと?」
エドガーは声を荒らげた。
「私の顔を潰せと言うのか」
「そのようなつもりでは……」
「なら黙って何とかしろ。王太子の小夜会だぞ」
侍従は頭を下げたまま動かない。
「……何だ、その顔は」
「すでに、できる限り手は尽くしております」
言い方は丁寧だったが、これ以上は無理だと言っているのと同じだった。
エドガーの機嫌が、目に見えて悪くなる。
「役立たずめ」
吐き捨てると、侍従は一礼して下がった。
その背中を見送りながら、セラフィナはそっと唇を噛む。
小夜会は、本来なら自分のためのものだった。昨夜の“勝利”の延長として、親しい者たちだけを集め、やんわりと新しい立場を匂わせる。そういう晴れやかな場になるはずだったのに、朝から聞こえるのは届かない、足りない、間に合わないという話ばかりだ。
「殿下……」
「心配するな」
エドガーは不機嫌なまま言う。
「多少手違いがあっても、大勢に影響はない」
だがその言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
王宮の会計局でも、朝からひそやかなざわめきが広がっていた。
台帳の前に座る書記官が、繰り返し同じ欄を見直している。
「おかしい」
「どこがです」
隣の書記官が問うと、彼は帳面を指で叩いた。
「これまで王太子宮付きで後払い扱いにしていた品のいくつかが、本日付で確認保留になっている」
「未払い、ということですか」
「いや、そうじゃない。これまでは問題なく通っていた。だが、支払い保証として添えられていた紹介枠が消えている」
「紹介枠?」
「ヴァルモン公爵家だ」
その名に、隣の書記官が息を呑む。
「では昨夜の件が……」
「たぶん、そうだろうな」
彼は低く言った。
「婚約破棄そのものより、そちらの方が厄介だ」
噂は王宮の中でもすでに駆け巡っていた。王太子が卒業舞踏会で婚約者を切り捨て、義妹を庇ったこと。それ自体は華やかな醜聞として消費できる。だが、問題はその先だ。王太子が自ら切った相手が、どれほど多くの実務と信用を握っていたか、分かる者には分かってしまう。
「まさか、殿下はご存じなかったのか」
「知っていてあんな真似をしたなら、よほどの愚か者だ」
「知らずにやったなら?」
書記官は乾いた笑いを漏らした。
「それも、たいがいだ」
昼前になるころには、違和感はさらに広がっていた。
王妃宮へ届けられるはずの上等な布が遅れ、近衛の装備点検用に回される補修品の数が合わず、厨房では追加注文の返事が鈍い。どれも一つひとつは致命傷ではない。だが小さな棘のように、あちこちへ刺さり始めている。
そのすべてが、“昨日までは通っていたもの”だった。
王宮という場所は巨大だ。だからこそ、小さな遅れや不足はすぐには崩壊にならない。代わりを探し、順番をずらし、どこかにしわ寄せを送って何とか回す。
だが、それは裏を返せば、誰かが無理を背負って埋めているということでもある。
そして、その無理は長く続かない。
昼過ぎ、エドガーのもとにはまた新しい報告が届いた。
今度は、彼が個人的に贔屓にしていた宝飾商からだった。
「次回以降の注文につきましては、従来と同条件でのお受けが難しく――」
読み上げる侍従の声を遮って、エドガーが机を叩く。
「またそれか!」
近くの燭台が揺れた。
「どいつもこいつも、申し合わせたように!」
侍従は黙って頭を下げる。
エドガーは苛立ちのまま歩き回った。
「結局、エルシェナだ。あの女が裏で糸を引いているに決まっている。婚約破棄された腹いせに、細かいところを止めて私を困らせているだけだ」
その言葉を、セラフィナはただ聞いていた。
最初はそう思いたかった。意地悪な姉が嫌がらせをしているだけ。そう考えれば、自分たちはまだ正しい側に立っていられる。
けれど、どうも違う。
もし本当にただの嫌がらせなら、なぜこんなにも多くの場所で、当たり前のように通っていたものが一斉に鈍るのだろう。なぜ商人たちも文官たちも、あれほど困った顔をするのだろう。
セラフィナは初めて、うっすらとした寒気を覚えた。
昨夜、自分は勝ったと思った。
姉の婚約者を奪い、姉の立場を壊し、ついに王太子の隣に立てたのだと。
なのに、その翌日から周囲の空気は祝福どころか、奇妙に冷えていく。
誰もあからさまには何も言わない。けれどその沈黙の中に、「何かまずいことが起きている」という気配だけが濃く積もっていく。
エドガーはなおも苛立っていた。
「今夜の小夜会は予定通り開く。いいな」
「ですが、殿下」
「できる範囲で整えれば十分だ!」
怒声が響き、侍従たちは一斉に頭を下げた。
誰も逆らわない。だが誰の表情にも、もう昨日までのような気楽さはなかった。
その夜、小夜会は確かに開かれた。
けれど規模は明らかに縮み、並んだ菓子は以前より貧相で、飾られた花も少なく、招かれた客の数も予定より減った。招待を受けていたはずの何人かは、急な都合を理由に姿を見せなかった。
エドガーはそれでも笑い、王太子らしく振る舞おうとした。
セラフィナも、なるべく上品に微笑んだ。
だが、どこか無理があった。
華やかさは形だけで、場の底にはうっすらとした不安が沈んでいる。
その不安の正体を、エドガーはまだ認めない。
セラフィナも、まだ認めきれない。
ただ二人とも、昨夜までにはなかった感覚だけは覚えていた。
これは、ただの意地悪ではない。
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翌日、冒険者ギルドで鑑定を行った結果、エマの腕輪は高い防御効果を持つことが判明。さらに彼女自身を鑑定すると、なんと「付与特化型聖女」であることが明らかになる。聖女が付与した魔道具は現実の力として強く発現するのだ。
価値がないと切り捨てられた人生は、ここでは確かな力となった。スペイラ帝国で、聖女エマの新しい人生が、静かに、そして輝かしく始まる。
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