婚約破棄をお望みでしたので。――本物の公爵令嬢は、奪った全員を生き地獄へ落とす

鷹 綾

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第六話 辺境伯からの手紙

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第六話 辺境伯からの手紙

ヴァルモン公爵邸に届く朝の便は、毎日かなりの数にのぼる。

王都に屋敷を構える大貴族である以上、挨拶状、招待状、商会からの報告、役所からの通知、領地からの定期便まで、紙の山が絶えることはない。けれど、その日の封書の束の中には、明らかに異質なものが一通だけ混じっていた。

厚みのある上質な紙。

飾り気は少ないのに、目にしただけで安物ではないと分かる封蝋。

押されている紋章は、王国のものではなかった。

朝の居間で書状の仕分けをしていたグラハムは、その封を見た瞬間、ほんのわずかに目を細めた。

そして、すぐにエルシェナのもとへ運ぶ。

「お嬢様」

「何かしら」

窓辺の長椅子に腰掛けていたエルシェナは、本から顔を上げた。ここ数日で動かすべきことはすでに山のようにあったが、だからこそ、こうして短くでも一人で考える時間を無理にでも確保していた。

グラハムは銀盆の上に封書を置く。

「隣国、アシュベリー辺境伯家からでございます」

エルシェナの指先が、ぴたりと止まった。

「……ローデリック・アシュベリー」

「はい」

その名を口にしただけで、空気が少し変わる。

ローデリック・アシュベリー。

隣国でもっとも若い辺境伯にして、冷徹と名高い男。社交界では寡黙、苛烈、情に流されない、と散々な噂の一方で、一度結んだ約定は決して違えないとも言われている。王都の甘い言葉で飾られた貴公子たちとは、まるで質の違う男だった。

エルシェナが彼と直接言葉を交わしたのは、これまで二度だけだ。

一度目は三年前の冬、王宮の夜会で。

二度目は昨年春の、王都での軍需に関する非公式な会食の席。

どちらの場でも、彼は必要以上に口を開かず、だが驚くほどよく人を見ていた。

「開けても?」

「もちろんでございます」

グラハムが一礼し、少し下がる。

エルシェナは封を切った。中の便箋は一枚だけだった。無駄のない筆跡で、短く、だが妙に印象へ残る文面が記されている。

彼女は静かに目を通した。

しばし沈黙が落ちる。

グラハムが問う。

「いかがでしたか」

エルシェナは便箋を閉じず、そのまま視線を落としたまま答えた。

「ずいぶん簡潔だこと」

「内容を伺っても」

「構わないわ」

そして、エルシェナは低く読み上げた。

「――ようやく、無駄な鎖が切れましたね。貴女がまだご自分を安売りなさらないのであれば、一度お話ししたい。王都にいるあいだなら、こちらから伺うことも可能です。ローデリック・アシュベリー」

グラハムは黙った。

そして数拍置いてから、珍しく少しだけ感心したように言った。

「実に、あの方らしいお文ですな」

「ええ。本当に」

慰めの言葉はひとつもない。

気の毒に、とも、心を痛めている、とも書いていない。

その代わり、この男は最初の一文で、あまりにもあっさり昨夜の婚約破棄を“鎖が切れた”と表現してみせたのだ。

普通なら無礼とも取れる。

だがエルシェナは、不思議と腹が立たなかった。

むしろその率直さに、ほんの少しだけ息がつきやすくなるのを感じた。

王都では今も、彼女のことを気の毒な婚約破棄令嬢として見る者と、冷酷な悪女として面白がる者に分かれている。どちらも、外から勝手に貼られた札だ。

だがローデリックは違う。

彼は最初から、婚約そのものを幸福だと思っていなかったのだろう。

「ご自分を安売りなさらないのであれば、ですか」

エルシェナは小さく呟いた。

甘い言葉ではない。けれど、この一文には妙な確かさがあった。彼はたぶん、昨夜の一件を知って同情で筆を取ったのではない。もっと現実的な判断で動いている。

それが分かるからこそ、軽くは扱えなかった。

グラハムが静かに尋ねる。

「お会いになりますか」

エルシェナはすぐには答えなかった。

窓の外では、まだ冬の冷たさを残した陽光が庭を照らしている。枝ばかりの木々の向こうに広がる空は淡く澄んでいた。

ローデリック・アシュベリー。

王都の貴族たちのように、口先で慰め、裏では値踏みするような男ではない。少なくとも、これまで見た限りでは。

それに、この手紙の差出人は、王都の噂話をただ遠巻きに楽しむような立場にもいない。辺境伯という立場上、物流、軍需、国境、交易――そういう“表からは見えにくいもの”をよく知っているはずだ。

だからこそ、昨夜の婚約破棄を見て最初に「鎖が切れた」と言ったのだろう。

エルシェナは便箋を畳み、膝の上へ置いた。

「会うわ」

「承知いたしました」

「ただし、邸内で。こちらから出向く必要はないもの」

「かしこまりました。日取りをお返事いたします」

グラハムがそう言って便箋を受け取ろうとした時、エルシェナがふと口を開く。

「グラハム」

「はい」

「あなたは、どう思う?」

老執事は一瞬だけ問いの意味を測るように沈黙した。

「辺境伯のこと、でございますか」

「ええ」

「油断のならぬお方でしょう」

即答だった。

エルシェナはかすかに笑う。

「そうね」

「ですが同時に、無意味な情で足を取られる方でもないかと」

「……そこが良いのかもしれないわ」

ぽつりと漏れた本音に、自分でも少し驚く。

今のエルシェナに必要なのは、気の毒だと眉を曇らせる同情ではない。泣いて見せれば寄り添ってくれる安い優しさでもない。

必要なのは、現実を現実として見られる目だ。

彼女が何を失い、何をまだ持っていて、これから何を奪い返せるのか。それを、曖昧な慰めで濁さずに見られる相手。

そういう意味では、ローデリックはたしかに適任だった。

グラハムは丁寧に一礼する。

「では、お嬢様。返書は本日中に」

「お願い」

「それと」

彼が少しだけ言葉を選ぶようにして続けた。

「辺境伯閣下が、この時期にわざわざ書を寄越されたということは……昨夜の件をかなり早い段階で、正確にお掴みですな」

「でしょうね」

「つまり、王都の外からも注目され始めたということでございます」

その指摘に、エルシェナは目を細めた。

王都の中だけなら、まだ醜聞として揉み消す余地もある。だが外へ広がれば、ただの婚約破棄では済まない。王太子がどれほど浅はかな真似をしたか、そしてヴァルモン公爵家がどう動くか。もう多くの目が見ている。

「なら、なおさら中途半端にはできないわね」

「はい」

グラハムが去ったあとも、エルシェナはしばらく窓辺に座ったままだった。

昨夜まで、未来はひとつしかないように見えていた。

望んでいた未来ではなかったとしても、王太子の婚約者として、いずれ王太子妃となる道。それが当然のように敷かれていて、そこから外れることなど考えたことはなかった。

だが今、その道は消えた。

正確には、誰かに壊された。

それでも不思議なことに、ただ何もかも失ったという感覚ではない。むしろ、ようやく余計なものが剥がれ始めたような感覚の方が近かった。

エドガーは彼女を切り捨てたつもりでいる。

セラフィナは姉からすべてを奪ったつもりでいる。

イザベルもまた、これで自分たちの望みが叶うと思っているだろう。

だが、その誰も、まだ本当の意味で何も分かっていない。

エルシェナは便箋の最後の一文を思い出す。

――一度お話ししたい。

それは誘いというより、確認に近い響きだった。

あなたはまだご自分の価値を手放していませんね、と。

「……面白い方」

誰に向けるでもなく呟く。

その声は驚くほど静かで、そして少しだけ柔らかかった。

けれど次の瞬間には、彼女の目に戻るのはいつもの冷えた光だ。

外では風が枝を鳴らしている。

冬の終わりのような、春の前のような音だった。

エルシェナはゆっくりと立ち上がる。

辺境伯との面会は、きっとただの慰問にはならない。

ならばなおさら、こちらも甘い顔を見せるわけにはいかなかった。

これから会う相手は、王都の愚かな貴公子たちとは違う。

見せかけではなく、値打ちそのものを測る男だ。

そしてエルシェナもまた、自分の値打ちを安く差し出すつもりはなかった。
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