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第七話 王宮の焦り
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第七話 王宮の焦り
王宮の異変は、三日目に入ってようやく“偶然”では済まされなくなった。
ひとつひとつは小さい。
予定していた花が届かない。
菓子の納品が遅れる。
宝飾商が返事を濁す。
仕立ての優先が外れる。
帳場で後払い扱いになっていたものが、急に確認待ちになる。
どれも単独なら、王宮ほどの場所ではよくある手違いで片づけられる。
だが、それが一斉に、しかも王太子宮を中心に起きているとなれば話は別だった。
会計局、厨房、衣装室、催事担当、侍従部屋。
王宮のあちこちで、同じような言葉が囁かれ始める。
「またですか」
「今度は何が止まったんだ」
「ヴァルモン家の名が外れた途端、これか……」
もちろん、それを大声で言う者はいない。
王太子の婚約破棄が原因だと口にするには、まだ相手が悪すぎる。だが、誰もが薄々気づいていた。
これまで“王太子だから当然”だと思っていた多くの便宜は、実際にはヴァルモン公爵家の信用や後押しを通して流れていたのだと。
午前の遅い時間、会計局の一室では書記官たちが帳簿を前に顔を曇らせていた。
「こちらも保留、こちらも確認待ち……」
年嵩の書記官が疲れたように額を押さえる。
「王太子宮付きの勘定だけ、明らかに偏っているな」
若い書記官が慎重に訊ねた。
「やはり、昨夜の件が……」
「“昨夜の件”ではない」
年嵩の書記官は低く言う。
「もっと前から積み上がっていたものが、一気に表へ出ただけだ」
「積み上がっていたもの?」
「信用だ。紹介だ。優先順位だ。誰の名前なら商人が損を恐れず動けるか、誰の頼みなら多少無理を通してでも応じるか。その全部だよ」
彼は帳簿の端を指先で叩いた。
「王太子の名だけで世の中が回ると思っている者ほど、こういう時に困る」
そこへ別の書記官が紙束を持って駆け込んでくる。
「北棟の催事担当からです。来月の春の祝賀宴で使う予定だった装飾布、数量確保が難しいと」
「理由は」
「従来の優先枠が消えたため、他の注文を先に通すと言われたそうです」
「また優先枠か……」
部屋の空気が、重く沈む。
結局、王宮の中枢に近い者ほど分かっていた。今起きているのは、ただの嫌がらせではない。これまで水面下で調整され、当然の顔をして流れていたものが、調整を失っただけだ。
そして“当然”を支えていたのが、王家そのものではなく、外部の大貴族家だったという事実がじわじわと彼らを冷やしていた。
同じ頃、王太子宮では、エドガーが朝から機嫌を悪くしていた。
「まだか」
短く吐き捨てるように言う。
控えていた侍従が頭を下げた。
「申し訳ございません。仕立て屋より、礼装の飾り紐は本日中には届かぬと……」
「昨日もそう言っていたな」
「はい」
「なら別の店を使え」
「すでに使いを出しましたが、同じ返答でございます」
エドガーは舌打ちした。
「どいつもこいつも、王太子を何だと思っている」
侍従は答えない。
答えられるはずがない。
王太子を何だと思っているか。
その問いに対する答えは、今まさに王宮のあちこちで形になりつつあった。誰も王太子を軽んじてはいない。だが“王太子だから最優先”というわけでもない。そして、その隙間を埋めていたのがヴァルモン公爵家だった。
エドガーだけが、それを理解していない。
ソファに座っていたセラフィナが、おそるおそる口を開く。
「殿下……あの……」
「何だ」
「今夜の夕餐会、本当に開かれるのですか」
エドガーは眉を上げた。
「当然だろう」
「でも、昨日からいろいろと届かないものが……」
「少し不足があったところで何だ。王太子の夕餐会だぞ。客は来る」
その言い方に、セラフィナはそれ以上続けられなかった。
彼女もまた、ここ数日の違和感を肌で感じていた。
侍女たちが必要以上に笑わない。
衣装合わせの際の持ち上げ方が薄い。
菓子の皿が以前より簡素。
運ばれてくる花も、どこか選びが雑。
それでも王太子の隣にいれば、いずれ全部自分のものになる。
そう思いたかったが、どうにも胸の底にひっかかるものがある。
そこでまた、新しい報告が届いた。
今度は催事担当の文官だった。
「殿下、失礼いたします」
「次は何だ」
「本日の夕餐会で使用する予定でした南方産の果実酒ですが、納入元より在庫を他家の注文へ回すとの連絡がございました」
「は?」
「継続取引に関わる信用確認が済むまで、新規同様の扱いになると……」
「意味が分からん」
エドガーが机を叩く。
「王太子宮だぞ!」
文官は頭を下げたまま、苦しそうに言った。
「相手方は、これまで王太子宮との継続取引ではなく、ヴァルモン公爵家を通じた特別枠と認識していたようでございます」
その一言で、室内がしんと静まった。
セラフィナが小さく息を呑む。
エドガーの顔がわずかに強張ったのを、近くの侍従たちは見逃さなかった。
だが彼はすぐに怒りへとそれを変える。
「結局、あの女の差し金ではないか!」
「殿下……」
「婚約を破棄された腹いせに、くだらない真似を!」
文官は慎重に言葉を選ぶ。
「差し金……というよりは、これまで公爵家のご厚意で成り立っていた枠組みが、そのまま外れただけかと」
「同じことだ!」
エドガーは吐き捨てた。
「わざとだろうが、自然に外れただろうが、私が不便を被っているなら同じだ!」
その理屈に、誰も何も言えなかった。
言えば火に油を注ぐだけだからだ。
だが、控えていた者たちの胸の内には同じ思いが浮かんでいた。
だったら、なぜ婚約破棄などしたのだ。
そう思わぬ者はいない。
昼を過ぎたころ、さらに悪い報せが続いた。
今度は近衛関連の補修品だ。
本来、王宮の優先案件として通るはずの革や金具が、予定通り確保できない。数量そのものは大きくなくとも、近衛の装具補修は地味に優先度が高い。そこにまで遅れが出るとなれば、もう王太子宮だけの問題ではなかった。
近衛詰所では、若い騎士が先輩に声を潜める。
「これ、さすがにまずくないですか」
「口を慎め」
「ですが……」
「分かっている」
先輩騎士は低く答えた。
「ただ、俺たちが騒ぐ話ではない」
「殿下はご存じなんでしょうか」
その問いに、先輩騎士は苦い顔をした。
「知っていてこの有様なら救いがないし、知らずに婚約破棄したならそれはそれで終わっている」
若い騎士は黙るしかなかった。
王宮全体に広がる焦りは、まだ爆発には至っていない。
だが確実に広がっていた。
それはまるで、見えないところで床板が少しずつ腐り始めているのに、上を歩く者だけが音の違いに気づいていないようなものだった。
夕刻、王宮の奥では国王付きの文官たちが集められていた。
華やかな広間ではなく、書類仕事のための質素な部屋だ。
そこで中年の政務官が、王太子宮に関する報告を整理している。
「ここ三日で、同種の報告がこれだけ積み上がっています」
別の文官が眉を寄せる。
「全部、王太子宮まわりか」
「正確には、王太子宮を起点に周辺へ波及している形です」
「王太子ご本人は」
「楽観しておられるようです」
部屋の空気が冷えた。
年長の政務官が、疲れたように椅子へ深く座る。
「楽観、ね」
「はい。“少し困らせればヴァルモン嬢も折れる”と」
その言葉に、誰もすぐには口を開かなかった。
やがて、もっとも年長の政務官が静かに言う。
「……折れるのは、どちらですかな」
返事はない。
だが全員、答えは胸の内に持っていた。
同じころ、ヴァルモン公爵邸ではグラハムが整理した報告書をエルシェナの前へ置いていた。
居間には静かな暖炉の音だけがある。
エルシェナは紙面を追い、淡々と内容を確かめていく。
「王太子宮付きの催事、衣装、厨房、会計まわり……ずいぶんきれいに影響が出ているのね」
「これでも、まだ表に出た分だけでございます」
グラハムが答えた。
「商会側も完全に取引を打ち切っているわけではありません。あくまで、これまでヴァルモン家の名で通していた分を、そのままにはできなくなったというだけです」
「つまり当然の反応、ということね」
「はい」
エルシェナは一枚の紙を指先で整えた。
「それでも、殿下には嫌がらせにしか見えないのでしょう」
「ご自身が何の上に立っておられたか、お分かりでなかったのでしょうな」
その言葉に、エルシェナはわずかに微笑んだ。
冷たい笑みだった。
「なら、もう少しだけ丁寧に教えて差し上げなくては」
王宮では焦りが広がっている。
だがまだ、王太子本人は本当の意味で困っていない。
だからこそ、理解もしない。
理解するのは、自分の手で何も戻せなくなった時だ。
エルシェナは報告書を閉じた。
暖炉の火が、静かに揺れる。
「グラハム」
「はい」
「まだ止めなくていいわ」
「承知いたしました」
「向こうが“少し不便”を“少し意地悪”だと思っているうちは、そのままでいい」
彼女はゆっくり顔を上げた。
「本当に怖いのは、もっと後だと分からせる必要があるもの」
その声は静かだった。
けれど、その静けさの下には、確かな意思が冷たく流れていた。
王宮の異変は、三日目に入ってようやく“偶然”では済まされなくなった。
ひとつひとつは小さい。
予定していた花が届かない。
菓子の納品が遅れる。
宝飾商が返事を濁す。
仕立ての優先が外れる。
帳場で後払い扱いになっていたものが、急に確認待ちになる。
どれも単独なら、王宮ほどの場所ではよくある手違いで片づけられる。
だが、それが一斉に、しかも王太子宮を中心に起きているとなれば話は別だった。
会計局、厨房、衣装室、催事担当、侍従部屋。
王宮のあちこちで、同じような言葉が囁かれ始める。
「またですか」
「今度は何が止まったんだ」
「ヴァルモン家の名が外れた途端、これか……」
もちろん、それを大声で言う者はいない。
王太子の婚約破棄が原因だと口にするには、まだ相手が悪すぎる。だが、誰もが薄々気づいていた。
これまで“王太子だから当然”だと思っていた多くの便宜は、実際にはヴァルモン公爵家の信用や後押しを通して流れていたのだと。
午前の遅い時間、会計局の一室では書記官たちが帳簿を前に顔を曇らせていた。
「こちらも保留、こちらも確認待ち……」
年嵩の書記官が疲れたように額を押さえる。
「王太子宮付きの勘定だけ、明らかに偏っているな」
若い書記官が慎重に訊ねた。
「やはり、昨夜の件が……」
「“昨夜の件”ではない」
年嵩の書記官は低く言う。
「もっと前から積み上がっていたものが、一気に表へ出ただけだ」
「積み上がっていたもの?」
「信用だ。紹介だ。優先順位だ。誰の名前なら商人が損を恐れず動けるか、誰の頼みなら多少無理を通してでも応じるか。その全部だよ」
彼は帳簿の端を指先で叩いた。
「王太子の名だけで世の中が回ると思っている者ほど、こういう時に困る」
そこへ別の書記官が紙束を持って駆け込んでくる。
「北棟の催事担当からです。来月の春の祝賀宴で使う予定だった装飾布、数量確保が難しいと」
「理由は」
「従来の優先枠が消えたため、他の注文を先に通すと言われたそうです」
「また優先枠か……」
部屋の空気が、重く沈む。
結局、王宮の中枢に近い者ほど分かっていた。今起きているのは、ただの嫌がらせではない。これまで水面下で調整され、当然の顔をして流れていたものが、調整を失っただけだ。
そして“当然”を支えていたのが、王家そのものではなく、外部の大貴族家だったという事実がじわじわと彼らを冷やしていた。
同じ頃、王太子宮では、エドガーが朝から機嫌を悪くしていた。
「まだか」
短く吐き捨てるように言う。
控えていた侍従が頭を下げた。
「申し訳ございません。仕立て屋より、礼装の飾り紐は本日中には届かぬと……」
「昨日もそう言っていたな」
「はい」
「なら別の店を使え」
「すでに使いを出しましたが、同じ返答でございます」
エドガーは舌打ちした。
「どいつもこいつも、王太子を何だと思っている」
侍従は答えない。
答えられるはずがない。
王太子を何だと思っているか。
その問いに対する答えは、今まさに王宮のあちこちで形になりつつあった。誰も王太子を軽んじてはいない。だが“王太子だから最優先”というわけでもない。そして、その隙間を埋めていたのがヴァルモン公爵家だった。
エドガーだけが、それを理解していない。
ソファに座っていたセラフィナが、おそるおそる口を開く。
「殿下……あの……」
「何だ」
「今夜の夕餐会、本当に開かれるのですか」
エドガーは眉を上げた。
「当然だろう」
「でも、昨日からいろいろと届かないものが……」
「少し不足があったところで何だ。王太子の夕餐会だぞ。客は来る」
その言い方に、セラフィナはそれ以上続けられなかった。
彼女もまた、ここ数日の違和感を肌で感じていた。
侍女たちが必要以上に笑わない。
衣装合わせの際の持ち上げ方が薄い。
菓子の皿が以前より簡素。
運ばれてくる花も、どこか選びが雑。
それでも王太子の隣にいれば、いずれ全部自分のものになる。
そう思いたかったが、どうにも胸の底にひっかかるものがある。
そこでまた、新しい報告が届いた。
今度は催事担当の文官だった。
「殿下、失礼いたします」
「次は何だ」
「本日の夕餐会で使用する予定でした南方産の果実酒ですが、納入元より在庫を他家の注文へ回すとの連絡がございました」
「は?」
「継続取引に関わる信用確認が済むまで、新規同様の扱いになると……」
「意味が分からん」
エドガーが机を叩く。
「王太子宮だぞ!」
文官は頭を下げたまま、苦しそうに言った。
「相手方は、これまで王太子宮との継続取引ではなく、ヴァルモン公爵家を通じた特別枠と認識していたようでございます」
その一言で、室内がしんと静まった。
セラフィナが小さく息を呑む。
エドガーの顔がわずかに強張ったのを、近くの侍従たちは見逃さなかった。
だが彼はすぐに怒りへとそれを変える。
「結局、あの女の差し金ではないか!」
「殿下……」
「婚約を破棄された腹いせに、くだらない真似を!」
文官は慎重に言葉を選ぶ。
「差し金……というよりは、これまで公爵家のご厚意で成り立っていた枠組みが、そのまま外れただけかと」
「同じことだ!」
エドガーは吐き捨てた。
「わざとだろうが、自然に外れただろうが、私が不便を被っているなら同じだ!」
その理屈に、誰も何も言えなかった。
言えば火に油を注ぐだけだからだ。
だが、控えていた者たちの胸の内には同じ思いが浮かんでいた。
だったら、なぜ婚約破棄などしたのだ。
そう思わぬ者はいない。
昼を過ぎたころ、さらに悪い報せが続いた。
今度は近衛関連の補修品だ。
本来、王宮の優先案件として通るはずの革や金具が、予定通り確保できない。数量そのものは大きくなくとも、近衛の装具補修は地味に優先度が高い。そこにまで遅れが出るとなれば、もう王太子宮だけの問題ではなかった。
近衛詰所では、若い騎士が先輩に声を潜める。
「これ、さすがにまずくないですか」
「口を慎め」
「ですが……」
「分かっている」
先輩騎士は低く答えた。
「ただ、俺たちが騒ぐ話ではない」
「殿下はご存じなんでしょうか」
その問いに、先輩騎士は苦い顔をした。
「知っていてこの有様なら救いがないし、知らずに婚約破棄したならそれはそれで終わっている」
若い騎士は黙るしかなかった。
王宮全体に広がる焦りは、まだ爆発には至っていない。
だが確実に広がっていた。
それはまるで、見えないところで床板が少しずつ腐り始めているのに、上を歩く者だけが音の違いに気づいていないようなものだった。
夕刻、王宮の奥では国王付きの文官たちが集められていた。
華やかな広間ではなく、書類仕事のための質素な部屋だ。
そこで中年の政務官が、王太子宮に関する報告を整理している。
「ここ三日で、同種の報告がこれだけ積み上がっています」
別の文官が眉を寄せる。
「全部、王太子宮まわりか」
「正確には、王太子宮を起点に周辺へ波及している形です」
「王太子ご本人は」
「楽観しておられるようです」
部屋の空気が冷えた。
年長の政務官が、疲れたように椅子へ深く座る。
「楽観、ね」
「はい。“少し困らせればヴァルモン嬢も折れる”と」
その言葉に、誰もすぐには口を開かなかった。
やがて、もっとも年長の政務官が静かに言う。
「……折れるのは、どちらですかな」
返事はない。
だが全員、答えは胸の内に持っていた。
同じころ、ヴァルモン公爵邸ではグラハムが整理した報告書をエルシェナの前へ置いていた。
居間には静かな暖炉の音だけがある。
エルシェナは紙面を追い、淡々と内容を確かめていく。
「王太子宮付きの催事、衣装、厨房、会計まわり……ずいぶんきれいに影響が出ているのね」
「これでも、まだ表に出た分だけでございます」
グラハムが答えた。
「商会側も完全に取引を打ち切っているわけではありません。あくまで、これまでヴァルモン家の名で通していた分を、そのままにはできなくなったというだけです」
「つまり当然の反応、ということね」
「はい」
エルシェナは一枚の紙を指先で整えた。
「それでも、殿下には嫌がらせにしか見えないのでしょう」
「ご自身が何の上に立っておられたか、お分かりでなかったのでしょうな」
その言葉に、エルシェナはわずかに微笑んだ。
冷たい笑みだった。
「なら、もう少しだけ丁寧に教えて差し上げなくては」
王宮では焦りが広がっている。
だがまだ、王太子本人は本当の意味で困っていない。
だからこそ、理解もしない。
理解するのは、自分の手で何も戻せなくなった時だ。
エルシェナは報告書を閉じた。
暖炉の火が、静かに揺れる。
「グラハム」
「はい」
「まだ止めなくていいわ」
「承知いたしました」
「向こうが“少し不便”を“少し意地悪”だと思っているうちは、そのままでいい」
彼女はゆっくり顔を上げた。
「本当に怖いのは、もっと後だと分からせる必要があるもの」
その声は静かだった。
けれど、その静けさの下には、確かな意思が冷たく流れていた。
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