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第八話 義妹の夢見る王太子妃生活
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第八話 義妹の夢見る王太子妃生活
セラフィナは、その朝いつもより早く目を覚ました。
王宮に用意された客間の天蓋を見上げた瞬間、胸の奥がふわりと浮き立つ。ここ数日は不安や戸惑いもあったけれど、それでも彼女は自分に言い聞かせ続けていた。
大丈夫。
自分はもう、ただの“公爵家の義妹”ではない。
王太子エドガーの隣に立ち、皆の前で守られた女だ。今はまだ正式な発表がなくとも、いずれ王宮の人々も、王都の貴族たちも、新しい立場を認めるようになる。少しばかり混乱があるのは、その前触れにすぎない。
そう思えば、胸は自然と甘く高鳴った。
侍女が寝台の脇へやって来る。
「お目覚めでございますか」
「ええ」
セラフィナは髪へ手をやり、少しだけ恥じらうように笑ってみせた。
「今日は、殿下とお昼前に少しお会いする約束があるの。支度をお願い」
「かしこまりました」
返ってきた声は丁寧だった。だが、どこか薄い。
以前なら、こういう場で侍女たちはもう少し浮き立った空気を見せたものだ。王太子の寵愛を受けているらしい娘の世話となれば、もっと目に見えてへりくだるか、逆に好奇心を隠しきれないことも多い。なのに今の侍女は、必要なことしか言わず、手も視線も妙に淡々としている。
少し気になったが、セラフィナは気にしないことにした。
そのうち変わる。
今は皆、昨夜の婚約破棄の余波で慎重になっているだけだ。新しい空気に慣れれば、自然と態度も整っていくはずだった。
鏡台の前に座りながら、セラフィナはふと声を弾ませる。
「今日は、明るい色のドレスがいいわ」
侍女が衣装棚の前で動きを止めた。
「明るい色、でございますか」
「ええ。淡い桃色か、春らしい若草色でも。あまり大げさでなくていいの。けれど、少しくらいは華やかに見えるものがいいわ」
侍女は一度、隣の補助侍女と目を合わせた。
「現在、お使いいただけるお召し物は限られております」
「限られている?」
セラフィナが振り返る。
「どういうこと?」
侍女は表情を変えずに答えた。
「新たなご注文分は、まだ納品の目処が立っておりません。お手元にあるものか、客用としてこちらに備えてある範囲のものでしたら」
セラフィナは思わず眉を寄せた。
「そんなはずないでしょう。殿下が新しく用意してくださるとおっしゃっていたもの」
「はい。ですが、現時点ではまだ」
現時点ではまだ。
その言い方が、妙に癇に障る。
用意されていて当然のものが、たまたま遅れているだけ。そういう響きではなかった。まるで、“そもそも当然ではないものを望んでいる”とでも言いたげな、静かな線引きがそこにあった。
セラフィナは口元を引き結ぶ。
「では、今ある中で一番いいものを持ってきて」
「かしこまりました」
運ばれてきたのは、たしかに質の悪いものではなかった。だが、王太子の隣に立つ女の衣装として考えると、物足りない。色味も控えめで、刺繍も少なく、布の艶も今ひとつだった。
これではまるで、地方の子爵令嬢が張り切って選ぶ一張羅のようではないか。
セラフィナはそれを口に出しかけて、ぎりぎりで飲み込んだ。
まだ早い。
ここで侍女に不満をぶつけるのは得策ではない。今は“慎ましく、けれど殿下に選ばれた可憐な女性”を演じるべきだ。そう自分に言い聞かせ、鏡の中で小さく微笑んでみせる。
「……そうね。今日はこれでいいわ」
「かしこまりました」
やはり侍女の声は平坦だった。
支度を終え、セラフィナが王太子宮の小広間へ向かうと、そこにはすでにエドガーがいた。だが、その機嫌は朝からあまりよろしくないようだった。
机の上には紙が散らばり、侍従が数人、必要以上に息を潜めて控えている。
それでもセラフィナは何も気づかぬふりで、やわらかく一礼した。
「殿下、お待たせいたしました」
エドガーは顔を上げる。
そして一瞬だけ、彼女の全身を見た。
「……そのドレスか」
「はい。今朝は明るい色をと思ったのですけれど、まだ新しいものが届かないそうで」
セラフィナは、少しだけ困ったように笑ってみせた。
責めているわけではない。けれど分かるだろう、という程度の甘えを混ぜた笑い方だった。
だがエドガーは侍従たちの前で不機嫌そうに眉を寄せただけだった。
「まだその話か」
「……え?」
「昨日から何でもかんでも届かない、止まった、遅れると、そればかりだ。少し待てば済む話だろう」
予想していなかった苛立ちをぶつけられ、セラフィナは目を瞬かせる。
「わ、わたくし、責めたのではなくて……」
「分かっている」
そう言いながらも、声は明らかに刺々しい。
「ただ、今は面倒が重なっているだけだ」
セラフィナは小さく「はい」と答えるしかなかった。
その時、侍従のひとりが進み出る。
「殿下、本日の午後に予定されておりました小規模の茶会ですが……」
「今度は何だ」
「招待を受けておられた三家より、欠席のご連絡がございました」
エドガーの顔色が変わる。
「三家?」
「はい。ご家族の体調不良、一族の急用、馬車の不調と、それぞれ理由は異なりますが……」
誰もが分かっていた。
それが本当の理由ではないことくらい。
王太子が婚約破棄をした。そのうえ、肝心の王宮内では妙な混乱が起き始めている。そんな中で、あまり早くセラフィナと親しく見える場へ顔を出すのは得策ではない。そう判断したのだろう。
セラフィナは指先をそっと握りしめた。
もともと、その茶会は自分のためのものだった。
昨夜の流れを受けて、親しい家々に自分の存在を自然に印象づけるための場。露骨な披露ではなく、けれど“もうエルシェナではないのだ”と感じさせるための、甘やかな第一歩になるはずだった。
それが、崩れ始めている。
「失礼ですが、殿下」
今度は年配の侍従が、かなり慎重な口調で言った。
「本日の茶会は、規模をさらに絞るか、日を改めることもご検討いただいた方が」
「なぜ私が退かねばならん」
エドガーがぴしゃりと遮る。
「欠席するなら好きにさせておけ。来る者だけで十分だ」
「しかし――」
「十分だと言った」
部屋の空気がぴんと張り詰める。
侍従はそれ以上言えず、頭を下げた。
セラフィナは、胸の奥が少しずつ冷えていくのを感じていた。
こんなはずではなかった。
王太子の隣に立てば、周囲はもっと分かりやすく変わるはずだった。侍女はへりくだり、侍従は気を利かせ、貴族たちは笑顔で近づいてくる。エルシェナではなく、自分の方が選ばれたのだと、誰もが納得するはずだった。
なのに現実は違う。
誰も露骨には逆らわない。だが誰も、心からこちらへ寄ってこない。
まるで皆が、様子を見ている。
セラフィナに価値があるかどうかではなく、この先どう転ぶかが分かるまで近づかないでおこうとするような、そんな冷たさがある。
昼を少し回ったころ、ようやく茶会は開かれた。
けれど集まった人数は少なく、並ぶ菓子も以前なら王太子の席には出ない程度のものが混じっていた。砂糖細工の繊細さはなく、焼き菓子も種類が少ない。花も小さく、卓上の彩りはどこか寒々しい。
それでもセラフィナは、必死に微笑んだ。
「まあ、可愛らしいお花ですこと」
そう口にしてみても、近くにいた若い令嬢は曖昧に笑うだけだった。
「そうですわね」
「セラフィナ様は、本当にお優しいのですね。こうしたささやかなものでも喜ばれて」
その言い方に、やさしい皮がかぶせられているぶんだけ、かえって侮りが透けて見えた。
セラフィナは頬がひきつるのをこらえた。
以前なら、こんなふうに言われることはなかった。エルシェナの影にいる“可哀想な義妹”だったからこそ、周囲はもっと同情的で、もっと分かりやすく味方をしてくれたのだ。
だが今は違う。
王太子の隣に立つ可能性が生まれた途端、誰もが彼女そのものの価値を見始める。
会話の広げ方。
所作の自然さ。
衣装の格。
席での落ち着き。
どれも、エルシェナと比べられてしまう。
そして、比べられた時に分かってしまうのだ。
中身が軽い、と。
茶会の終わり際、セラフィナは控えの間で一人になる時間を得た。
侍女が外した手袋を盆へ置く。
「お疲れさまでございました」
「……ねえ」
セラフィナは鏡を見たまま言った。
「今後のドレス、本当にまだ届かないの?」
「はい。現状では」
「じゃあ、殿下のお名前で最優先にしてもらえばいいでしょう」
侍女はほんの一瞬だけ黙った。
「すでにそのように動いております」
「なら、どうして」
「商会側が、これまでと同条件でのお引き受けは難しいと」
その答えを聞き、セラフィナはとうとう苛立ちを抑えきれなくなった。
「何なの、それ。王太子殿下のお言葉より、ほかの家の都合の方が上だっていうの?」
侍女は視線を下げたまま答える。
「わたくしには分かりかねます」
その無機質さが、かえってセラフィナをみじめにした。
怒鳴れば済む相手ではない。泣けば慰めてくれる相手でもない。
王宮の者たちは、必要な礼だけは尽くす。だがその内側には、誰が本当に価値ある存在かを測る冷たい目がある。そして今、その目は彼女に対してひどく薄情だった。
夕方、ようやく一人になった時、セラフィナは寝台へ腰を下ろし、両手で顔を覆った。
違う。
違うわ。
こんなはずじゃない。
自分はもっと、もっと幸せになるはずだったのに。
エルシェナから奪えば、それで全部うまくいくと思っていた。姉のものを手に入れれば、自分も同じ場所へ行けるのだと、ずっと信じていた。
でも、もしかすると違うのだろうか。
エルシェナが持っていたのは、婚約者や立場だけではなかったのではないか。
もっと別の、目に見えない何か――誰もが当然と思っていたものを、あの女は最初から持っていたのではないか。
その考えが胸をよぎった瞬間、セラフィナは激しく首を振った。
そんなはずない。
あの冷たくて嫌な姉が、自分より優れているなんて、認めたくなかった。
だから彼女は、最後までそこへは目を向けない。
代わりに唇を噛みしめ、震える声で呟く。
「……お姉様のせいだわ」
それは呪いのような一言だった。
自分が足りないのではない。
周囲が冷たいのでもない。
全部、あの女が悪い。
そう思わなければ、自分があまりにも空っぽだと認めることになってしまうから。
セラフィナは、その朝いつもより早く目を覚ました。
王宮に用意された客間の天蓋を見上げた瞬間、胸の奥がふわりと浮き立つ。ここ数日は不安や戸惑いもあったけれど、それでも彼女は自分に言い聞かせ続けていた。
大丈夫。
自分はもう、ただの“公爵家の義妹”ではない。
王太子エドガーの隣に立ち、皆の前で守られた女だ。今はまだ正式な発表がなくとも、いずれ王宮の人々も、王都の貴族たちも、新しい立場を認めるようになる。少しばかり混乱があるのは、その前触れにすぎない。
そう思えば、胸は自然と甘く高鳴った。
侍女が寝台の脇へやって来る。
「お目覚めでございますか」
「ええ」
セラフィナは髪へ手をやり、少しだけ恥じらうように笑ってみせた。
「今日は、殿下とお昼前に少しお会いする約束があるの。支度をお願い」
「かしこまりました」
返ってきた声は丁寧だった。だが、どこか薄い。
以前なら、こういう場で侍女たちはもう少し浮き立った空気を見せたものだ。王太子の寵愛を受けているらしい娘の世話となれば、もっと目に見えてへりくだるか、逆に好奇心を隠しきれないことも多い。なのに今の侍女は、必要なことしか言わず、手も視線も妙に淡々としている。
少し気になったが、セラフィナは気にしないことにした。
そのうち変わる。
今は皆、昨夜の婚約破棄の余波で慎重になっているだけだ。新しい空気に慣れれば、自然と態度も整っていくはずだった。
鏡台の前に座りながら、セラフィナはふと声を弾ませる。
「今日は、明るい色のドレスがいいわ」
侍女が衣装棚の前で動きを止めた。
「明るい色、でございますか」
「ええ。淡い桃色か、春らしい若草色でも。あまり大げさでなくていいの。けれど、少しくらいは華やかに見えるものがいいわ」
侍女は一度、隣の補助侍女と目を合わせた。
「現在、お使いいただけるお召し物は限られております」
「限られている?」
セラフィナが振り返る。
「どういうこと?」
侍女は表情を変えずに答えた。
「新たなご注文分は、まだ納品の目処が立っておりません。お手元にあるものか、客用としてこちらに備えてある範囲のものでしたら」
セラフィナは思わず眉を寄せた。
「そんなはずないでしょう。殿下が新しく用意してくださるとおっしゃっていたもの」
「はい。ですが、現時点ではまだ」
現時点ではまだ。
その言い方が、妙に癇に障る。
用意されていて当然のものが、たまたま遅れているだけ。そういう響きではなかった。まるで、“そもそも当然ではないものを望んでいる”とでも言いたげな、静かな線引きがそこにあった。
セラフィナは口元を引き結ぶ。
「では、今ある中で一番いいものを持ってきて」
「かしこまりました」
運ばれてきたのは、たしかに質の悪いものではなかった。だが、王太子の隣に立つ女の衣装として考えると、物足りない。色味も控えめで、刺繍も少なく、布の艶も今ひとつだった。
これではまるで、地方の子爵令嬢が張り切って選ぶ一張羅のようではないか。
セラフィナはそれを口に出しかけて、ぎりぎりで飲み込んだ。
まだ早い。
ここで侍女に不満をぶつけるのは得策ではない。今は“慎ましく、けれど殿下に選ばれた可憐な女性”を演じるべきだ。そう自分に言い聞かせ、鏡の中で小さく微笑んでみせる。
「……そうね。今日はこれでいいわ」
「かしこまりました」
やはり侍女の声は平坦だった。
支度を終え、セラフィナが王太子宮の小広間へ向かうと、そこにはすでにエドガーがいた。だが、その機嫌は朝からあまりよろしくないようだった。
机の上には紙が散らばり、侍従が数人、必要以上に息を潜めて控えている。
それでもセラフィナは何も気づかぬふりで、やわらかく一礼した。
「殿下、お待たせいたしました」
エドガーは顔を上げる。
そして一瞬だけ、彼女の全身を見た。
「……そのドレスか」
「はい。今朝は明るい色をと思ったのですけれど、まだ新しいものが届かないそうで」
セラフィナは、少しだけ困ったように笑ってみせた。
責めているわけではない。けれど分かるだろう、という程度の甘えを混ぜた笑い方だった。
だがエドガーは侍従たちの前で不機嫌そうに眉を寄せただけだった。
「まだその話か」
「……え?」
「昨日から何でもかんでも届かない、止まった、遅れると、そればかりだ。少し待てば済む話だろう」
予想していなかった苛立ちをぶつけられ、セラフィナは目を瞬かせる。
「わ、わたくし、責めたのではなくて……」
「分かっている」
そう言いながらも、声は明らかに刺々しい。
「ただ、今は面倒が重なっているだけだ」
セラフィナは小さく「はい」と答えるしかなかった。
その時、侍従のひとりが進み出る。
「殿下、本日の午後に予定されておりました小規模の茶会ですが……」
「今度は何だ」
「招待を受けておられた三家より、欠席のご連絡がございました」
エドガーの顔色が変わる。
「三家?」
「はい。ご家族の体調不良、一族の急用、馬車の不調と、それぞれ理由は異なりますが……」
誰もが分かっていた。
それが本当の理由ではないことくらい。
王太子が婚約破棄をした。そのうえ、肝心の王宮内では妙な混乱が起き始めている。そんな中で、あまり早くセラフィナと親しく見える場へ顔を出すのは得策ではない。そう判断したのだろう。
セラフィナは指先をそっと握りしめた。
もともと、その茶会は自分のためのものだった。
昨夜の流れを受けて、親しい家々に自分の存在を自然に印象づけるための場。露骨な披露ではなく、けれど“もうエルシェナではないのだ”と感じさせるための、甘やかな第一歩になるはずだった。
それが、崩れ始めている。
「失礼ですが、殿下」
今度は年配の侍従が、かなり慎重な口調で言った。
「本日の茶会は、規模をさらに絞るか、日を改めることもご検討いただいた方が」
「なぜ私が退かねばならん」
エドガーがぴしゃりと遮る。
「欠席するなら好きにさせておけ。来る者だけで十分だ」
「しかし――」
「十分だと言った」
部屋の空気がぴんと張り詰める。
侍従はそれ以上言えず、頭を下げた。
セラフィナは、胸の奥が少しずつ冷えていくのを感じていた。
こんなはずではなかった。
王太子の隣に立てば、周囲はもっと分かりやすく変わるはずだった。侍女はへりくだり、侍従は気を利かせ、貴族たちは笑顔で近づいてくる。エルシェナではなく、自分の方が選ばれたのだと、誰もが納得するはずだった。
なのに現実は違う。
誰も露骨には逆らわない。だが誰も、心からこちらへ寄ってこない。
まるで皆が、様子を見ている。
セラフィナに価値があるかどうかではなく、この先どう転ぶかが分かるまで近づかないでおこうとするような、そんな冷たさがある。
昼を少し回ったころ、ようやく茶会は開かれた。
けれど集まった人数は少なく、並ぶ菓子も以前なら王太子の席には出ない程度のものが混じっていた。砂糖細工の繊細さはなく、焼き菓子も種類が少ない。花も小さく、卓上の彩りはどこか寒々しい。
それでもセラフィナは、必死に微笑んだ。
「まあ、可愛らしいお花ですこと」
そう口にしてみても、近くにいた若い令嬢は曖昧に笑うだけだった。
「そうですわね」
「セラフィナ様は、本当にお優しいのですね。こうしたささやかなものでも喜ばれて」
その言い方に、やさしい皮がかぶせられているぶんだけ、かえって侮りが透けて見えた。
セラフィナは頬がひきつるのをこらえた。
以前なら、こんなふうに言われることはなかった。エルシェナの影にいる“可哀想な義妹”だったからこそ、周囲はもっと同情的で、もっと分かりやすく味方をしてくれたのだ。
だが今は違う。
王太子の隣に立つ可能性が生まれた途端、誰もが彼女そのものの価値を見始める。
会話の広げ方。
所作の自然さ。
衣装の格。
席での落ち着き。
どれも、エルシェナと比べられてしまう。
そして、比べられた時に分かってしまうのだ。
中身が軽い、と。
茶会の終わり際、セラフィナは控えの間で一人になる時間を得た。
侍女が外した手袋を盆へ置く。
「お疲れさまでございました」
「……ねえ」
セラフィナは鏡を見たまま言った。
「今後のドレス、本当にまだ届かないの?」
「はい。現状では」
「じゃあ、殿下のお名前で最優先にしてもらえばいいでしょう」
侍女はほんの一瞬だけ黙った。
「すでにそのように動いております」
「なら、どうして」
「商会側が、これまでと同条件でのお引き受けは難しいと」
その答えを聞き、セラフィナはとうとう苛立ちを抑えきれなくなった。
「何なの、それ。王太子殿下のお言葉より、ほかの家の都合の方が上だっていうの?」
侍女は視線を下げたまま答える。
「わたくしには分かりかねます」
その無機質さが、かえってセラフィナをみじめにした。
怒鳴れば済む相手ではない。泣けば慰めてくれる相手でもない。
王宮の者たちは、必要な礼だけは尽くす。だがその内側には、誰が本当に価値ある存在かを測る冷たい目がある。そして今、その目は彼女に対してひどく薄情だった。
夕方、ようやく一人になった時、セラフィナは寝台へ腰を下ろし、両手で顔を覆った。
違う。
違うわ。
こんなはずじゃない。
自分はもっと、もっと幸せになるはずだったのに。
エルシェナから奪えば、それで全部うまくいくと思っていた。姉のものを手に入れれば、自分も同じ場所へ行けるのだと、ずっと信じていた。
でも、もしかすると違うのだろうか。
エルシェナが持っていたのは、婚約者や立場だけではなかったのではないか。
もっと別の、目に見えない何か――誰もが当然と思っていたものを、あの女は最初から持っていたのではないか。
その考えが胸をよぎった瞬間、セラフィナは激しく首を振った。
そんなはずない。
あの冷たくて嫌な姉が、自分より優れているなんて、認めたくなかった。
だから彼女は、最後までそこへは目を向けない。
代わりに唇を噛みしめ、震える声で呟く。
「……お姉様のせいだわ」
それは呪いのような一言だった。
自分が足りないのではない。
周囲が冷たいのでもない。
全部、あの女が悪い。
そう思わなければ、自分があまりにも空っぽだと認めることになってしまうから。
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