婚約破棄をお望みでしたので。――本物の公爵令嬢は、奪った全員を生き地獄へ落とす

鷹 綾

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第九話 継母の誤算

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第九話 継母の誤算

イザベルは、朝の支度に人一倍時間をかける女だった。

それは単なる虚栄ではない。公爵夫人としてどう見えるか、どの角度からなら最も上品に映るか、どの色をまとえば相手の警戒をほどきつつ自分を格上に見せられるか。そうした細かな計算の積み重ねこそが、彼女にとっての武装だった。

その日も鏡台の前で、侍女が髪を整え、別の侍女が宝石箱を開いている。

「今日はどちらになさいますか、奥様」

「そうね……朝は控えめな真珠でいいわ。昼にベネット侯爵夫人のところへ顔を出す時は、翡翠の揃いを」

「かしこまりました」

イザベルは鏡の中の自分へ、ゆるやかな笑みを浮かべてみせた。

まだ大丈夫。

王都には多少きな臭い空気が流れている。けれどそれは、婚約破棄直後で皆が騒いでいるだけだ。落ち着けば、話は自然にまとまる。王太子はエルシェナを捨て、セラフィナを選んだ。それが新しい現実になる。

そしてその現実の中心には、自分と娘がいる。

そう信じて疑わなかった。

「奥様」

控えていた年かさの侍女が、少しためらうように口を開く。

「何かしら」

「ベネット侯爵夫人の件ですが……先ほど先方より使いが参りまして、本日は急な頭痛のためお会いするのが難しいと」

イザベルは、鏡越しにゆっくり侍女を見た。

「頭痛?」

「はい。そのように」

「……そう」

声は穏やかだったが、指先がわずかに止まる。

ベネット侯爵夫人は、先日までなら絶対にこういう断り方をしない相手だった。社交界の噂を好む女ではあるが、それ以上に風向きを読むのがうまい。わざわざヴァルモン公爵夫人との面会を断るほど愚かではない。

なのに断った。

しかも、分かりやすい嘘で。

「他は?」

「本日お手紙を差し上げていた三家のうち、二家はまだお返事待ちでございます。もう一家は、奥方がご不在と」

「ご不在ね」

イザベルは微笑んだ。

だがそれは、好意を滲ませる笑みではなく、薄く冷えたものだった。

昨日までは違った。卒業舞踏会の翌日には、同情と好奇心を抱えた貴婦人たちからいくつも言伝が届いたのだ。お気の毒に。おつらいでしょう。セラフィナ様はお優しいのですね。表向きの言葉はどうあれ、彼女たちはイザベルを通じて新しい空気を嗅ぎたがっていた。

なのに今日は妙に鈍い。

まるで、誰もが急に慎重になったかのように。

イザベルは立ち上がる。

「馬車を出して。ベネット侯爵夫人のところへは行かないわ」

「では、いかがなさいますか」

「先にラドクリフ子爵夫人の屋敷へ寄る。そのあと、商会へ」

侍女が一瞬目を上げた。

「商会、でございますか」

「ええ」

イザベルは淡く笑った。

「少し確認したいことがあるの」

実のところ、この数日で彼女も異変には気づいていた。

王宮ばかりではない。ヴァルモン公爵邸の外回りでも、返事の速度が落ちている。出入りの商人たちの態度が妙に固い。お願いすれば通るはずの小さな便宜が、曖昧な返答で濁される。

まだ表立った拒絶ではない。

だが、今まで当然のように通っていたものが通りにくくなっている。

それを確かめる必要があった。

午前のうちに向かったラドクリフ子爵夫人の屋敷では、応接室に通されるまでの待ち時間が妙に長かった。ようやく現れた子爵夫人は、いつも以上ににこやかに迎えたが、その笑みはどこか上滑りしている。

「まあ、イザベル様。お久しゅうございますわ」

「ほんの数日前にもお会いしましたのに」

「うふふ、でもこうして改めてお顔を拝見すると安心いたしますわ」

取りとめのない挨拶が続く。

茶が運ばれ、菓子が並ぶ。けれどその菓子も、以前ならイザベルの好みを見越してもう少し凝った品が出てきたはずだ。小さな違いだが、こういうところに相手の熱は出る。

イザベルは穏やかにカップを持ち上げた。

「王都も、ずいぶん騒がしいこと」

「ええ、本当に。皆さま、卒業舞踏会の話でもちきりですわ」

「困ったものですわね。家庭のことにまで、好き勝手なお噂がついてしまって」

ラドクリフ子爵夫人は曖昧に笑った。

「でも、殿下があれほど公におっしゃったのですもの。やはり皆さま、真実味を感じてしまうのでしょうね」

イザベルの目が、ほんの少しだけ細くなる。

「真実味、ですか」

「まあ、もちろん、わたくしは軽々しく何かを信じたりはいたしませんわ。ただ……」

子爵夫人はそこでいったん声を潜めた。

「公の場で、あそこまでおっしゃる以上、何もないわけではないのかしら、と」

そこで止めるのがいやらしかった。

あなたの言葉を鵜呑みにはしていない。でも殿下があそこまで言うのだから、エルシェナに何か非があったのでしょう。そう、責任の所在を綺麗にぼかしながら、イザベルの思い通りの結論には乗らない。

昨日までなら、もっと分かりやすくセラフィナを褒め、エルシェナを“あの子は昔から冷たかった”と笑ってくれる者も多かったというのに。

イザベルは柔らかく微笑む。

「セラフィナは本当に傷ついておりますのよ。あの子は優しい子ですから、今でも姉を悪く言いたがらなくて」

「まあ……なんて健気なのかしら」

言葉だけは立派だった。けれど、それ以上話が膨らまない。

以前のように、“では今度ぜひセラフィナ様をお茶へ”とも、“王太子妃になられたら楽しみですわ”とも続かない。

みな、待っているのだ。

風向きがどちらへ定まるか。

それが分かるまで、露骨には乗らない。

応接を終え、馬車へ戻ったイザベルは扇子を閉じたまま、しばらく何も言わなかった。

やがて低く呟く。

「嫌な女」

同席していた侍女が息を詰める。

それがラドクリフ子爵夫人を指しているのか、それとも別の誰かなのか、一瞬では分からなかったからだ。

だがイザベルはすぐ言い直した。

「……エルシェナのことよ」

それで侍女はようやく黙って頭を下げた。

次に向かったのは、王都でも大きな取引を担う老舗商会だった。ヴァルモン家とも長い付き合いがある。表向きは絹と宝飾を扱っているが、実際にはもっと広い品目と人脈を持つ店だ。

店主自らが応接に出てきた。

「これは奥様、ご足労いただきまして」

「急に立ち寄ってしまってごめんなさいね」

「とんでもございません」

物腰は丁寧だ。だが、イザベルは席についた瞬間に分かった。

この男も、昨日までと空気が違う。

「実は少し困っておりますの」

イザベルはため息混じりに言った。

「王宮まわりで、いくつか納入が滞っていると聞きまして。何か行き違いがあるのかしら」

店主は慎重に答える。

「滞っているというより、確認が増えております」

「確認?」

「はい。これまでヴァルモン公爵家名義、またはエルシェナお嬢様ご紹介の案件としてお通ししていたものにつきまして、今後どう扱うか明確にせねばならなくなりまして」

イザベルは笑みを崩さない。

「まあ。わたくしは今もヴァルモン公爵夫人ですのよ?」

店主は一礼した。

「もちろんでございます」

「なら問題ないのではなくて?」

「公爵夫人でいらっしゃることと、どなたのお名前で信用枠をお通ししていたかは、少々別の話でございまして」

その返しは、想像以上にきっぱりしていた。

イザベルの胸の奥で、何かが冷たく鳴る。

「……つまり、わたくしでは足りないと?」

「そのような意味では」

「同じですわ」

扇子を開く音が、小さく響いた。

店主は視線を下げたまま続ける。

「長年、公爵家とはお付き合いがございます。ですが近年、王宮まわりの細かなご調整は主にエルシェナお嬢様を通じて行われておりました。お嬢様のお言葉とご署名があるからこそ、無理を通せた案件も少なくなく……」

イザベルはもう笑っていなかった。

「そのエルシェナが、今は婚約破棄されたのです」

「はい」

「なら、公爵家としてわたくしが引き継げば済む話でしょう」

店主はそこで初めて、ほんの少しだけ困ったような顔を見せた。

「奥様。その……引き継げるかどうかは、信用次第でございます」

それは商人としてごく当然の理屈だった。

だが、イザベルにとってはほとんど侮辱に近い。

公爵夫人である自分に向かって、お前には足りないと言われたも同然だからだ。

「失礼な方」

「恐れながら、現実だけを申し上げております」

イザベルは立ち上がった。

「もう結構ですわ」

店主もすぐ立ち上がり、一礼する。

「ご期待に添えぬ返答、申し訳ございません」

謝罪の形は取っている。けれど、中身は譲らない。

つまり、これが商人たちの答えなのだ。

屋敷へ戻る馬車の中で、イザベルはずっと黙っていた。

怒りの形が、まだ定まらない。

社交界の女たちが慎重になっていることも腹立たしい。だが、それ以上に気に入らないのは商人どもだ。相手の顔色ばかり窺う下賤な連中のくせに、こういう時だけ妙に筋を通した顔をする。

窓の外を流れる冬の王都を見ながら、イザベルはようやく口を開いた。

「……舐められたものね」

侍女が小さく身を縮める。

「奥様」

「エルシェナがいなくなれば、全部こちらへ流れてくると思っていたのに」

それは本音だった。

王太子の婚約者という立場をエルシェナから剥がし、セラフィナをその位置へ滑り込ませる。そうすれば、今まで姉へ流れていた注目も便宜も、自然とこちらへ移ると考えていた。

だが実際には違った。

エルシェナがいなくなったからといって、そのままイザベルとセラフィナへ移るわけではない。

むしろ、エルシェナと共に何かが消えたのだ。

いや、正しくは。

エルシェナが持っていたものを、自分たちは最初から持っていなかった。

その現実を認めるのは、イザベルには耐えがたかった。

「お嬢様は……いかがなさいますか」

侍女が恐る恐る尋ねる。

「セラフィナ?」

イザベルは目を閉じた。

「まだ泣いていればいいわ」

「はい」

「今は、可哀想な娘でいるのが一番価値があるもの」

吐き捨てるような声音だった。

セラフィナに腹を立てているのではない。けれど、娘が夢見ている“王太子妃になればすべてが手に入る”という甘さが、今のイザベルにはひどく腹立たしかった。

そんなに簡単なら、自分がこれほど長く計算などしない。

馬車が公爵邸へ滑り込む。

屋敷へ戻るころには、イザベルの顔にはもういつもの穏やかな仮面が戻っていた。

だが、その内側でははっきり分かっていた。

これは思っていた形ではない。

自分は勝ったはずなのに、なぜか盤面が整わない。

いや、整わないどころか、少しずつこちらに不利な方へ傾いている。

それが誤算だった。

そして、イザベルはまだ知らない。

その誤算は、これから先もっと大きく、もっと取り返しのつかない形で膨らんでいくのだということを。
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