婚約破棄をお望みでしたので。――本物の公爵令嬢は、奪った全員を生き地獄へ落とす

鷹 綾

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第十話 辺境伯との再会

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第十話 辺境伯との再会

ローデリック・アシュベリーがヴァルモン公爵邸を訪れたのは、空が白く曇った午後だった。

冬の名残を引きずるような冷たい日で、庭の木々はまだ固く、空気も張りつめている。だが邸内は、いつも以上に静かに整えられていた。来客のために華美を尽くしたというより、余計なものを排した上で、家としての格を一分の隙もなく示している。そんな空気だった。

応接室の暖炉には火が入り、低い卓には茶器と菓子が用意されている。

エルシェナは窓辺近くの長椅子に座り、膝の上で手を重ねていた。

今日のために選んだドレスは深い青灰色。飾りは少ない。だが、その抑えた色味がかえって彼女の白い肌と整った面差しを際立たせていた。傷ついた令嬢として会うつもりはない。だからこそ、弱さも華美も必要なかった。

控えるグラハムが、扉の方へ静かに目を向ける。

やがて案内の声がし、応接室の扉が開いた。

入ってきた男は、王都の貴公子たちとはまるで違っていた。

まず、無駄がない。

身につけている上着は上質だが装飾は抑えられ、色も深く落ち着いている。帯剣した姿には軍人めいた硬さがあり、肩の線はすっきりとまっすぐだ。淡い色の髪は後ろへ流され、灰青の瞳だけが静かに周囲を見ていた。

ローデリック・アシュベリー。

辺境伯であり、隣国でも一、二を争う実務家と評される男。

彼は室内へ入るなり形式通りの礼を取り、まっすぐエルシェナを見た。

「ご機嫌よう、エルシェナ嬢」

「ご機嫌よう、アシュベリー辺境伯閣下」

形だけなら何の問題もない挨拶だった。

だが、その短いやり取りだけで分かる。

この男は、こちらの顔色を伺わない。

王都の男たちのように、まず笑みで柔らかく包み、相手を安心させてから本音を探るような真似をしないのだ。必要な礼は尽くす。だが、それ以上の媚びは一切ない。

エルシェナはそのことに、妙な心地よさを覚えた。

向かい合って席につく。

侍女が茶を注ぎ、グラハムの合図で音もなく下がっていく。室内には暖炉の火の音だけがかすかに残った。

先に口を開いたのは、ローデリックの方だった。

「手紙に応じてくださり感謝いたします」

「こちらこそ。ずいぶん早く事情をお知りになったのね」

「王都の噂は、思っている以上によく流れてきます」

「噂、ですか」

エルシェナはごく薄く微笑んだ。

「では、私のこともずいぶん面白く聞こえているのでしょうね。冷酷な悪女、公衆の面前で婚約を捨てられた惨めな令嬢、あるいは義妹をいじめ抜いた高慢な姉」

ローデリックはその笑みに乗らなかった。

「私は噂を聞きに来たのではありません」

即答だった。

「目の前で起きたことと、そのあと何が動いているかを見に来ました」

その一言で、エルシェナの目がわずかに細まる。

やはりこの男は、慰めに来たのではない。

「では閣下には、何が見えているのかしら」

「殿下は、切ってはならないものを切った」

あまりにもあっさりと言われて、エルシェナはかえって言葉を失いかけた。

けれどローデリックは構わず続ける。

「しかも、それが何かすら理解せずに」

暖炉の火がぱち、と鳴る。

エルシェナは静かにカップを持ち上げた。

「ずいぶん率直ですこと」

「お嫌いでしたか」

「いいえ。ようやく会話ができる気がいたします」

その返しに、ローデリックの口元がほんの少しだけ和らいだ。笑った、というほどではない。けれど初めて、彼の表情にかすかな温度が差した。

「それは何よりです」

エルシェナはカップを戻す。

「では、閣下は何を確認したいの」

「二つです」

「聞きましょう」

「一つ目。貴女が、ご自分の価値をまだ正しく理解しておられるかどうか」

随分と大きく出るものだと、普通なら腹を立てる場面かもしれない。だがローデリックの声音には侮りがなかった。試すようでいて、実際には事実確認をしているだけだ。

エルシェナは視線を逸らさないまま答える。

「少なくとも、私が捨てられて価値を失うような人間でないことくらいは分かっているつもりよ」

「結構です」

「二つ目は?」

「貴女が、まだ情で足を止めるつもりかどうか」

その問いに、室内の空気がわずかに張った。

グラハムは無言のままだったが、視線だけが少し動く。

ローデリックは言い換えなかった。

つまり彼は聞いているのだ。

王太子、義妹、継母。

あれほどの侮辱を受けたあとでも、家族だから、かつての婚約者だからといった甘さを残しているのかと。

エルシェナはしばらく黙っていた。

遠くで風が窓を鳴らす。

「……なぜ、そのことをお尋ねになるの」

「簡単です」

ローデリックは迷いなく言った。

「そこが曖昧な者は、最後まで勝ちきれない」

その冷たさに、エルシェナはかえって息をつきそうになった。

王都では、誰もそんなふうには言わない。もっと柔らかく、もっと曖昧に、“それでもお優しいのですね”と美徳に変えてしまう。だが優しさと甘さは違う。そして一度敵に回した相手へ中途半端な情を残すことが、どれほど危ういかも、エルシェナには分かっていた。

「勝つ、ですか」

「違いましたか」

「いいえ」

エルシェナは首を横に振る。

「私も、そうするつもりよ」

ローデリックは黙って彼女を見た。

その目は、人を値踏みするというより、言葉と中身が一致しているかを見ている目だった。

「殿下が婚約破棄を宣言した時」

エルシェナは静かに口を開く。

「私は驚かなかったの。いずれそうなると分かっていたから」

「では、傷つかなかった?」

「傷ついたわ」

きっぱり言った。

「公の場で名誉を踏みにじられて、平気な顔だけで済むほど鈍くはないもの」

そこで一度言葉を切る。

「でも、傷ついたことと、赦すことは別よ」

ローデリックの瞳がわずかに細まった。

「なるほど」

「閣下こそ、ずいぶんこの件に関心をお持ちなのね。隣国の辺境伯にとって、王太子の婚約破棄など、ただの王都の醜聞にも見えるでしょうに」

「表向きは」

「表向き?」

「王太子がどれほど浅慮か。ヴァルモン公爵家がどれほど王家の機能を支えていたか。隣国から見れば、そのどちらも大きな情報です」

あまりにも身も蓋もない物言いだった。

だがそこに打算があることを隠さないところが、むしろ潔い。

「つまり、私は“気の毒な令嬢”ではなく、“価値ある駒”として見られているのかしら」

そう問うと、ローデリックはほんの少しだけ間を置いてから答えた。

「違います」

「では?」

「価値ある人間として見ています」

その言葉に、さすがにエルシェナも沈黙した。

甘さはない。だが軽さもなかった。

慰めとして言っているのではないと分かるからこそ、その一言は妙に真っ直ぐ胸へ入る。

ローデリックは続ける。

「駒なら代わりが利く。だが、貴女が持っているものは代わりが利かない」

「……随分と買ってくださるのね」

「事実を言ったまでです」

そこにはお世辞の匂いが一切なかった。

エルシェナはふと視線を落とし、自分の指先を見た。

これまで王都の男たちは、彼女へ別の意味で価値を見てきた。王太子の婚約者。ヴァルモン公爵家の娘。美しい令嬢。だが、その下にある実務や判断力、背負ってきたものまで正面から見た者は少ない。

王太子エドガーなど、結局最後まで何も見ていなかった。

そのことを思えば、ローデリックの言葉はひどく異質だった。

「それで」

エルシェナは顔を上げる。

「閣下は、私に何をお望みなの」

ローデリックはすぐには答えなかった。

窓の外の曇天に、淡い冬の光が滲んでいる。

「今は何も」

ようやく落ちた声は静かだった。

「ただ、貴女が自分を安売りしないことを確認したかった」

「それだけ?」

「それだけです」

「拍子抜けするわ」

「いずれ、そうでもなくなるかもしれません」

その言い回しに、ほんのわずかに未来の気配が混じる。

だが彼は、それ以上を急がなかった。

ここで縁談めいたことを匂わせれば、王都の男たちと同じになる。だからしないのだろう。今はまだ、取引のように条件を並べる段階ですらない。まず相手がどういう人間かを見定める。その意味で、この男は驚くほど誠実だった。

グラハムが、絶妙な間で口を開く。

「辺境伯閣下」

「何でしょう」

「失礼ながら、お嬢様は今、王都でもっとも注目を集めておられます。閣下がわざわざお越しになったこと自体、いずれ噂になるやもしれません」

ローデリックはうなずいた。

「承知しています」

「それでも?」

「それでも」

迷いがない。

そして彼は、まっすぐエルシェナに向き直った。

「今の王都で、貴女の価値を正面から測る者が少なすぎる。なら、私が来るしかないでしょう」

その言葉に、グラハムはわずかに眉を動かしただけで、それ以上は何も言わなかった。

エルシェナは、しばらくローデリックを見つめていた。

変わった男だと思う。

甘い言葉を囁くわけでもない。寄り添うふりをするでもない。けれど、気づけば会話の中心にあるのはいつも自分の価値と意志で、哀れみではない。

それが思いのほか心地よかった。

「今日は来てくださってありがとう、閣下」

「ええ」

「少なくとも、つまらない同情ではなかったわ」

ローデリックは立ち上がった。

「同情は、貴女には無礼でしょう」

その言葉を最後に、彼は礼を取る。

エルシェナもまた立ち上がり、一礼を返した。

応接室の扉が閉まり、足音が遠ざかるまで、室内は静かだった。

やがてグラハムが低く言う。

「……油断のならぬ方でございますな」

「ええ」

「ですが、誠実でもおありになる」

エルシェナは答えず、ただ窓の外を見た。

曇天の向こうに、わずかに明るさがにじんでいる。

王太子に婚約を捨てられた直後に、こんなふうに自分の価値だけを問う男と向き合うことになるとは思わなかった。

だが、悪くない。

むしろ、ようやくまともな会話をした気さえする。

「グラハム」

「はい」

「辺境伯閣下のおっしゃる通りかもしれないわ」

「何がでございましょう」

エルシェナは、ほんの少しだけ唇を上げた。

「私は、まだ何も安売りしていない」

その笑みは静かだった。

けれど、そこには昨夜までよりはっきりとした強さが宿っていた。
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