婚約破棄をお望みでしたので。――本物の公爵令嬢は、奪った全員を生き地獄へ落とす

鷹 綾

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第十一話 静かな共闘

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第十一話 静かな共闘

ローデリック・アシュベリーが去ったあとも、応接室にはしばらく静けさが残っていた。

暖炉の火が小さく鳴る。

磨かれた床の上へ午後の薄い光が落ち、先ほどまで向かいに座っていた男の気配だけが、まだ空気の中にわずかに残っているようだった。

エルシェナは窓辺へ歩み寄り、曇った庭を見た。

冬の終わりの庭は華やかさとはほど遠い。花もなく、木々もまだ固い。だが、その静けさには妙な落ち着きがあった。余計な色がないぶん、物の輪郭だけがはっきり見える。

今の自分も、少し似ているのかもしれないとエルシェナは思った。

婚約者という名目を失った。王太子妃になるはずだった未来も消えた。社交界では悪女と囁かれ、義妹は可哀想な被害者として持ち上げられている。

それでも、いざ立ち止まってみれば、何もかも奪われたわけではなかった。

むしろ、余計なものが剥がれて、自分の輪郭だけが見え始めている。

背後でグラハムが静かに問う。

「お疲れではございませんか」

「いいえ」

エルシェナは振り返った。

「疲れるような話ではなかったわ。むしろ、少し頭が冴えた気がする」

グラハムは一礼しながらも、口元にわずかな安堵を浮かべた。

「辺境伯閣下が、お嬢様を気の毒な令嬢として扱われなかったことは、わたくしもありがたく思いました」

「ええ」

エルシェナはソファへ戻り、ゆっくり腰を下ろした。

「今の王都には、私を面白がるか、哀れむか、そのどちらかしかいないもの」

「そして、どちらも役には立ちませぬ」

「その通り」

短く答えてから、エルシェナはテーブルの上に置かれたままのカップへ目を落とした。

もう茶は冷めている。

ローデリックとの会話を思い返す。

貴女がまだご自分を安売りなさらないのであれば。

手紙にも、先ほどの会話にも、彼は同じことを一貫して示していた。つまり、傷ついた勢いで、自分を安く扱うなということだ。

誰かの保護へ飛びつくこと。

情に流されて王太子側へ中途半端な譲歩を見せること。

あるいは、気の毒な令嬢として周囲の同情を集めることで立場を作ろうとすること。

そのどれも、彼は“安売り”だと見ているのだろう。

そしてエルシェナ自身も、それは違うと分かっていた。

「グラハム」

「はい」

「辺境伯閣下のおっしゃること、少し分かる気がするの」

「と、申しますと」

「私はたぶん、今までずっと“王太子の婚約者”として値踏みされてきたのよ」

グラハムは黙って耳を傾ける。

「公爵令嬢として。美しい令嬢として。将来の王太子妃として。けれど、それは私そのものの価値じゃなかった」

「……お嬢様」

「もちろん、公爵家の娘であることは私の一部よ。でもそれだけではないはずなのに、王都の人間はそこしか見ない」

エルシェナは目を上げた。

「辺境伯閣下は違った。だから、あの方の言葉は少しだけ聞く価値があったわ」

グラハムはゆっくりとうなずいた。

「では、お嬢様はあのお方を信じられますか」

「信じる、という言い方はまだ早いわね」

エルシェナは正直に答えた。

「でも、少なくとも話が通じる相手だとは思う」

「それで十分かと」

暖炉の火が、また小さく鳴る。

しばらくして、グラハムが新しい紙束を持って戻ってきた。先ほどまでとは別の顔つきだ。執事ではなく、実務を取りまとめる者の目になっている。

「王宮まわりの整理、第一段の洗い出しがまとまりました」

「見せて」

紙を受け取り、エルシェナは内容に目を通した。

催事用発注の優先口。

衣装・宝飾関係の信用枠。

王太子私的交際費に近い扱いで通っていた後払い案件。

王宮向けに便宜を図っていた商会の一覧。

その一つひとつが、いま王宮で起きている微細な混乱とつながっている。

そして紙面を見れば見るほど、エドガーがいかに何も知らずに刃を振るったかが分かった。

「……本当に、見事なまでに分かっていなかったのね」

「はい」

グラハムの返答は淡々としている。

「王太子殿下は、お嬢様のお立場を“婚約者”としか見ておられなかったのでしょう。婚約者が消えても、王太子というご自身の立場はそのまま残ると」

「でも実際には、婚約者が消えたのではなく、土台の一部が消えた」

「左様でございます」

エルシェナは紙を静かに机へ置いた。

この数日で、王宮ではすでに違和感が広がっている。

だが、まだ致命傷ではない。

だからエドガーは理解しない。

理解するのは、もっとはっきりと数字と書面で突きつけられた時だ。

「グラハム」

「はい」

「ここから先は、“自然に外れただけ”では足りないわ」

老執事の目がわずかに細くなる。

「正式に進められますか」

「ええ」

エルシェナははっきりと言った。

「婚約破棄を公の場で宣言した以上、あちらは感情で済ませるつもりでも、こちらまでそれに付き合う必要はないもの」

「違約金の件に加え、名誉毀損と公爵家への信用損壊も、正式に乗せられますな」

「乗せるわ」

そこに迷いはなかった。

公衆の面前で悪女呼ばわりされ、義妹への虐待をでっち上げられ、婚約破棄を言い渡されたのだ。ただ婚約が終わりました、で済ませる気は初めからない。

「それから」

エルシェナは少しだけ間を置いた。

「辺境伯閣下からのお言葉を、そのまま受け取るつもりはないけれど……」

「はい」

「使えるものは使わせていただくわ」

その言葉に、グラハムの目にかすかな光が宿る。

「と、申しますと」

「隣国側の情報よ。王都の中だけで事を見ていると、どうしても“王太子の婚約破棄”として飲み込もうとする人間が出る。でも外から見れば、これはもっと別の意味を持つ」

グラハムはすぐ理解した。

「王家の判断の浅さ、公爵家の実務的価値、その双方が見えるということですな」

「ええ」

エルシェナは紙束の端を指先で整える。

「王家の外から見ても、今回の件がいかに愚かだったか。それを分かる者がいるという事実は使える」

「辺境伯閣下は、応じられるでしょうか」

「応じるかどうかではなく、利があれば動く方でしょう」

「なるほど」

「その方が、こちらとしても付き合いやすいわ」

王都の男たちのように、感情のふりをして近づいてくるよりよほどいい。取引とまでは言わなくとも、少なくとも互いに現実を見ている者同士の方が話が早い。

エルシェナは椅子の背へ身を預けた。

「……おかしなものね」

「何がでございましょう」

「婚約を失ったのに、ようやく周りに話の通じる人間が出てきた気がするの」

グラハムはその言葉に、珍しくわずかに微笑んだ。

「それはお嬢様が、ようやく不必要なものを切り捨てられたからでは」

「私が切ったのではなく、向こうが勝手に切ったのよ」

「ええ。ですが、その結果として、お嬢様の目に入る景色はだいぶ変わられたかと」

確かにそうだった。

王太子の婚約者という札を失ったことで、離れていく者は多いだろう。だがその代わり、札に寄ってきていた者も消える。

残るのはもっと別のものを見る人間だ。

その意味では、ローデリックの来訪は一つの転機かもしれなかった。

「返書をもう一通、出しましょう」

エルシェナが言うと、グラハムがすぐに反応する。

「辺境伯閣下へでございますか」

「ええ。今日の礼だけではなく、今後、必要な情報交換の余地があることを伝えておいて」

「承知いたしました」

「ただし、媚びるような文は不要よ」

「もちろんでございます」

グラハムが一礼して下がろうとした時、エルシェナがふと呼び止めた。

「グラハム」

「はい」

「王宮への正式な文書も急いで」

「違約金請求の草案でございますな」

「ええ。それと、名誉毀損、公爵家への信用損壊、婚約に付随していた便宜供与の整理。それぞれ別立てで分かるように」

「かしこまりました」

「向こうが“少し困る”程度で済むと思っているうちに、こちらは先へ進めておくわ」

グラハムの声音が、わずかに低くなる。

「情けはかけられませぬか」

その問いは確認だった。

エルシェナはまっすぐに答える。

「かけない」

それだけで十分だった。

グラハムは深く一礼する。

「では、そのように」

扉が閉まり、再び部屋に一人になる。

エルシェナは窓の外を見た。

曇り空の下、庭の木々はまだ春を知らない。だがその固い枝の先には、目を凝らせばごく小さな芽の気配がある。

何もかも失ったように見えても、終わったわけではない。

むしろ、ここからなのだ。

王太子は、自分が婚約を捨てたと思っている。

セラフィナは、姉からすべてを奪ったつもりでいる。

イザベルもまた、長年の計算が実ったと信じているだろう。

けれど実際には、まだ何も終わっていない。

エルシェナは静かに目を伏せた。

共闘、という言葉がふと脳裏をよぎる。

まだそこまで明確ではない。ローデリックと自分が味方同士だと言うのは早い。けれど、少なくとも敵ではない。そして、互いに現実を見て動ける。

それだけで十分価値があった。

「……半端には赦さないこと、だったわね」

誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。

あの男なら、そう言うだろうと思った。実際、言葉の端々に同じものがあった。

エルシェナの唇に、ごく薄い笑みが浮かぶ。

赦さない。

その響きを、もう一度胸の中で転がした。

傷ついたことと、赦すことは別。

ならば自分が選ぶべきなのは、曖昧な慈悲ではない。

きちんと終わらせることだ。

冷たい冬の午後、暖炉の火だけが静かに揺れていた。

その火を見つめながら、エルシェナははっきりと理解する。

これは、ただ婚約を破棄された女の再起ではない。

自分を踏みにじった者たちへ、二度と立ち上がれない形で返すための始まりなのだと。
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