婚約破棄をお望みでしたので。――本物の公爵令嬢は、奪った全員を生き地獄へ落とす

鷹 綾

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第二十四話 逃げ道なし

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第二十四話 逃げ道なし

王都の空気は、もはや完全に変わっていた。

少し前までなら、王太子エドガーの婚約破棄は“強い立場の男が、冷たい婚約者を切り捨てた痛快な話”として消費できた。セラフィナは可哀想な妹で、エルシェナは高慢な姉。その筋書きは単純で、人々は単純な物語を好む。

だが現実は、その単純さを許さなかった。

王宮で起きる不都合。
ヴァルモン公爵家からの正式な請求。
社交界で広がる疑念。
セラフィナの失態。
継母イザベルへの追及。

どれもが少しずつ、しかし確実に、最初の筋書きを壊していく。

そして今、王都で囁かれているのはもう別の話だった。

――王太子は、切ってはならないものを切った。
――義妹は、奪ったつもりで何も得ていない。
――ヴァルモン家を敵に回した代償は、思っていたよりずっと大きい。

その空気を、エドガー自身もさすがに感じ始めていた。

王太子宮の居間で、彼は苛立たしげに書状を机へ投げる。

「また断りだ!」

侍従たちは顔を伏せたまま動かない。

今度は何家目か。
誰も数えていなかったわけではないが、あえて口にはしない。夜会の誘い、内輪の茶会、軽い会食、狩りの予定。どれもこれも“急用”“体調不良”“家の事情”という綺麗な文句で断られていく。

建前は丁寧だ。
だが意味は同じだった。

距離を置く。

それが今の王都の答えなのだ。

「殿下」

年配の侍従が慎重に口を開く。

「本日の夕刻に予定されていた伯爵家との会談も、延期の申し出が」

「もう聞いた!」

エドガーは吐き捨てる。

「どいつもこいつも、少し騒ぎが大きくなっただけで腰を引きおって」

だが、それは違う。

腰を引いているのではない。
損をしない場所へ移ろうとしているだけだ。

エドガーはまだそれを認めない。

自分が避けられているのではない。皆が臆病なだけだ。エルシェナが意地を張っているだけだ。ヴァルモン家が大げさに騒いでいるだけだ。

そう考えていなければ、自分の愚かさを直視することになるから。

だが現実は容赦がなかった。

その日の午後、さらに決定的な報せが入る。

王太子宮と近しくしていた二つの商会が、新規の注文をしばらく見合わせたいと通達してきたのだ。理由は曖昧に濁されていたが、分かりきっている。信用が不安定だからだ。

エドガーは、その文面を読み終えたあとしばらく黙っていた。

怒鳴ることすらできなかった。

それは初めてのことだった。

今までなら、何か不都合があればすぐ誰かへ怒りをぶつけられた。侍従へ、文官へ、催事係へ、時にはセラフィナへ。だが、商会が二つも正式に引くとなれば、もう個人の失敗やその場の手配では埋められない。

逃げ場が消えていく音がした。

一方、ヴァルモン公爵邸では、エルシェナが最新の報告書へ目を通していた。

「ずいぶんきれいに止まり始めたわね」

グラハムが低く答える。

「皆さま、お上手でございます。真正面から敵には回らず、しかし確実に距離を置いておられる」

「それで十分よ」

エルシェナは報告書を閉じた。

「向こうに必要なのは、味方の多さではなく、逃げ道だもの」

「逃げ道、でございますか」

「ええ」

彼女は静かに言った。

「殿下はまだ、どこかで“少し待てば戻る”と思っているのよ。でも実際には違う。一つずつ、戻れない場所へ追い込まれている」

グラハムは深くうなずく。

王太子宮の混乱。
社交界の手のひら返し。
商会の距離。
王の失望。
継母の不正露見。
義妹の失態。

それらは別々の問題ではない。全部が一つの流れになって、エドガーたちの立場を削っているのだ。

しかも、削る方向が厄介だった。

処罰が下れば終わり、ではない。
追放されればそこで一区切り、でもない。

今起きているのは、それ以前の段階での崩壊だ。
人が離れ、信用が抜け、当然と思っていたものが一つずつ消えていく。

だからこそ痛い。

その夜、セラフィナは自室で小さく震えていた。

昼間、廊下ですれ違った侍女たちが、明らかに彼女を避けたのだ。礼はする。けれどそれだけ。少し前までなら“お可哀想に”というぬるい同情でも向けてくれた者たちが、今はもうそれすらない。

セラフィナは分かっていた。

可哀想な妹でいる時間は終わったのだ。

今の自分は、“王太子の隣にいるくせに、何の役にも立たない女”として見られ始めている。

その認識が、彼女の胸を締めつけた。

一方のイザベルも、屋敷の中で完全に身動きが取りにくくなっていた。帳簿は押さえられ、鍵の管理も取り上げられ、使用人たちももはや以前のようには従わない。表向きは公爵夫人であっても、実態としては“調べられている女”に過ぎなくなっている。

三人はそれぞれ別の場所にいた。

だが、同じところへ向かっていた。

逃げ道のない場所へ。

エルシェナは夜の窓辺に立ち、王都の灯を遠く眺めた。

最初の婚約破棄で終わった話なら、ここまでにはならなかった。
だがもう違う。

失ったのは婚約者一人ではない。
王太子は信頼を失った。
セラフィナは“可哀想な妹”という札を失った。
イザベルは家の中での支配を失った。

そしてこれから、もっと大きなものを失う。

「グラハム」

「はい」

「もう向こうに残っているのは、体裁だけね」

「左様でございます」

「なら、その体裁もいずれ剥がれるわ」

エルシェナの声は静かだった。

だがその静けさの奥に、揺るぎはない。

王太子たちはまだ、自分たちが崖の途中にいることに気づいていない。
だがもう、後ろへ戻る道はない。

前へ進めば落ちる。
止まっても足場が崩れる。
そんな場所へ、彼らはすでに立たされているのだ。
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