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第二十三話 縁談
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第二十三話 縁談
王都では、噂が次の噂を呼んでいた。
王太子の婚約破棄。
義妹の涙。
ヴァルモン公爵家からの請求。
王宮で広がる混乱。
継母の不正をめぐる囁き。
そして、ついには国王がエドガーを厳しく叱責したらしい、という話まで。
どこまでが本当で、どこからが尾ひれか。そんなことを気にする者は少ない。だが、王都の空気は確実に変わっていた。
エドガーとセラフィナの側へ、あれほど軽々しく寄っていた者たちが、今は皆、慎重に距離を置いている。
一方で、エルシェナの名には別の重みが宿り始めていた。
気の毒な令嬢。
婚約破棄された公爵令嬢。
最初はそんな扱いだったものが、今や少しずつ違う響きを持ち始めている。
静かに立ち、取り乱さず、王家に対して正式な手続きを進める女。
その冷たさを怖れる者もいる。
だが同時に、その冷たさこそが格だと感じ始める者も出てきていた。
そんな折に届いた一通の書状を見た時、グラハムは珍しく、ほんのわずかに目を見開いた。
「お嬢様」
「何かしら」
午後の居間で報告書を読んでいたエルシェナが顔を上げる。
グラハムは銀盆の上に置かれた封書を示した。
「アシュベリー辺境伯閣下よりでございます」
エルシェナは手を止めた。
ローデリック・アシュベリー。
先日この屋敷を訪れ、自分の価値を安売りするなとでも言うような目で見た男。その後、情報交換を許す形のごく短い返書は交わしていたが、こんなに早く再び動いてくるとは思っていなかった。
「中身は」
「未開封でございます」
「そう」
エルシェナは封を切った。
中の便箋はやはり無駄のないものだった。読み進めるうち、彼女の表情にごくわずかな変化が生まれる。
グラハムが慎重に尋ねる。
「いかがでしたか」
エルシェナは便箋を畳み、静かに卓へ置いた。
「ずいぶんと真っ直ぐなお話だこと」
「と、申しますと」
「縁談よ」
その一言に、さすがのグラハムも数拍言葉を失った。
「……辺境伯閣下から、正式に」
「ええ。もっとも、今すぐ返事を求めるものではないわ」
エルシェナは便箋を指先で軽く押さえた。
書かれていた内容は簡潔だった。
――いずれ王都の騒ぎが落ち着いたのち、もし貴女が新たな縁談を考える余地を持たれるなら、私は候補として名乗りを上げたい。
甘い文句はない。
気の毒に思っているとも、救いたいとも書いていない。
ただ、彼は彼の立場で、将来の縁談相手として正式に意志を示したのだ。
それがローデリックらしかった。
「まあ、気が早いとお笑いになる方もおられましょうが」
グラハムが慎重に言う。
「辺境伯閣下らしい、とも申せますな」
「ええ」
エルシェナはうなずいた。
「同情で近づく気がないからこそ、今ここで曖昧にせず言ってきたのでしょう」
それは分かりやすい求愛ではない。
だが軽い慰めより、よほど誠実だった。
王太子に捨てられた可哀想な令嬢だから声をかけたのではない。王都の騒ぎを見たうえで、それでもなお価値があると判断したから名乗りを上げる。
そういう意味では、これ以上なく真っ当な話だった。
グラハムは少しだけ口元を和らげる。
「お嬢様を正面から見ている証とも取れます」
「そうね」
エルシェナは便箋をもう一度見た。
自分はまだ王太子との婚約破棄の始末の最中にいる。王家とのやり取りも終わっていない。継母イザベルの不正も、セラフィナの虚構も、すべてがまだ途中だ。
そんな時期に新たな縁談。
普通なら、不謹慎と受け取られかねない。
だがローデリックは、その危うさも含めて承知のうえで書いてきている。
逃げず、濁さず、名乗る。
それがこの男のやり方だった。
「お嬢様は、いかがなさいますか」
「返事は保留よ」
即答だった。
「今すぐ首を縦に振る気はないわ」
「それがよろしいかと」
「でも」
エルシェナは少しだけ目を細めた。
「無礼とも、性急すぎるとも思わなかった」
それはかなり大きな意味を持つ言葉だった。
グラハムもそれを理解しているのだろう。老執事は深くうなずいた。
「辺境伯閣下は、少なくとも王都の男どものように、お嬢様を“捨てられた女”として見てはおられませぬな」
「ええ」
捨てられたから拾う。
傷ものになったから保護する。
そんな気配が一切ないのがよかった。
むしろ逆だ。
彼はエルシェナを、今もっとも高く値がつく相手として見ている。だからこそ、他が躊躇している今のうちに、正式に名乗っておく。
ある意味、とても冷静で、とても打算的だ。
だがその打算は不快ではなかった。
こちらの価値を低く見積もっていない証でもあるからだ。
その夜、公爵の執務室では、エルシェナが父へその話を伝えていた。
ヴァルモン公爵はしばし沈黙し、それから椅子に深くもたれた。
「……アシュベリー辺境伯か」
「はい」
「悪い相手ではない」
「そう思われますか」
「少なくとも、今の王都でお前へ真っ直ぐ縁談を持ち込めるだけの胆力はあるな」
父の言い方に、エルシェナは少しだけ笑った。
確かにそうだ。
今の自分に近づくことは、王家への無言の牽制にもなりうる。エドガーの愚かさが王都に広まりつつあるとはいえ、それでも王太子の元婚約者へ堂々と名乗りを上げるのは、並の貴族には重すぎる。
ローデリックはそれを分かったうえで来ている。
「ただし」
父が続ける。
「今すぐ話を進める必要はない」
「ええ。私もそのつもりはありません」
「まだこちらの始末が終わっていないからな」
エルシェナは静かにうなずいた。
まさにその通りだった。
新しい未来を考えるより先に、終わらせるべきものがある。王家への返しも、継母への処分も、義妹の虚飾を剥がすことも、まだ途中だ。
中途半端なまま次へ進めば、全部が曖昧になる。
それだけは避けたかった。
「ですが、お父様」
「何だ」
「不思議なものですわね」
「何がだ」
「王太子に婚約を捨てられたあとで、ようやく“婚約者候補”としてまともに見られた気がするのです」
その言葉に、父はすぐには返答しなかった。
やがて、低く言う。
「……すまなかったな」
エルシェナは少し目を見開いた。
「何のことでしょう」
「お前を、王太子の婚約者という札のまま長く置きすぎた」
父の声には、静かな悔いが滲んでいた。
エルシェナは何も言わなかった。
否定はできない。
そういう面も確かにあった。
彼女は長く“王太子妃になるはずの公爵令嬢”として扱われ、その札込みでしか見られてこなかった。本人の価値も、実務も、判断力も、すべてその下に埋もれていた。
ローデリックはそこを最初から外して見てきた。
それが、ほかの男たちとの決定的な違いだった。
「返事は、丁寧に保留いたします」
エルシェナは落ち着いて言った。
「今はまだ、こちらの始末を優先すると」
「それでよい」
父はうなずいた。
執務室を出たあと、エルシェナは一人で回廊を歩いた。
窓の外では夜の気配が庭を沈めている。灯りに照らされた石畳は白く、冬の終わりの冷気がガラス越しにも感じられた。
縁談。
その響きはもう、以前とは少し違って聞こえる。
王太子との婚約があった頃、それは家同士の取り決めであり、将来当然そうなるものとして置かれていた。けれど今、ローデリックから届いたそれは、もっと別の形をしている。
彼はエルシェナを“余りもの”として求めてはいない。
王家に捨てられた令嬢を救うつもりでもない。
ただ、自分の隣へ置くに値すると見たから名乗った。
その違いは大きかった。
部屋へ戻ると、グラハムが返書の草案を用意して待っていた。
「お目通しいただけますか」
「お願い」
そこには、礼と、現段階では返答を留保する旨、それでも申し出そのものを真摯に受け止めたことが、過不足なく記されていた。
「いいわ」
エルシェナはうなずく。
「これで出して」
「かしこまりました」
グラハムが一礼する。
そのまま下がろうとした彼を、エルシェナはふと呼び止めた。
「グラハム」
「はい」
「辺境伯閣下は、なぜ今この話を持ってきたのだと思う?」
老執事は少し考えてから答えた。
「お嬢様が今、一番高く売れると見ておられるからでしょう」
その率直さに、エルシェナは思わず笑った。
「言うわね」
「ですが、それは失礼な意味ではございません」
「分かっているわ」
むしろ逆だった。
高く売れる。
つまり、それだけ価値があると見ているということだ。
「……悪くない表現ね」
ごく薄くそう言うと、グラハムもまた静かに微笑んだ。
火の入った暖炉の前で、エルシェナはそっと息をつく。
新しい未来を急ぐつもりはない。
だが、自分にはもう“捨てられたあとの残りもの”として差し出される未来しかないわけではない。
その事実だけでも、十分だった。
そしてそれは、エドガーが思っているより、ずっと痛い形で彼へ返っていく。
お前が捨てたつもりの女には、まだこんな価値がある。
そう、王都の外から示されるのだから。
王都では、噂が次の噂を呼んでいた。
王太子の婚約破棄。
義妹の涙。
ヴァルモン公爵家からの請求。
王宮で広がる混乱。
継母の不正をめぐる囁き。
そして、ついには国王がエドガーを厳しく叱責したらしい、という話まで。
どこまでが本当で、どこからが尾ひれか。そんなことを気にする者は少ない。だが、王都の空気は確実に変わっていた。
エドガーとセラフィナの側へ、あれほど軽々しく寄っていた者たちが、今は皆、慎重に距離を置いている。
一方で、エルシェナの名には別の重みが宿り始めていた。
気の毒な令嬢。
婚約破棄された公爵令嬢。
最初はそんな扱いだったものが、今や少しずつ違う響きを持ち始めている。
静かに立ち、取り乱さず、王家に対して正式な手続きを進める女。
その冷たさを怖れる者もいる。
だが同時に、その冷たさこそが格だと感じ始める者も出てきていた。
そんな折に届いた一通の書状を見た時、グラハムは珍しく、ほんのわずかに目を見開いた。
「お嬢様」
「何かしら」
午後の居間で報告書を読んでいたエルシェナが顔を上げる。
グラハムは銀盆の上に置かれた封書を示した。
「アシュベリー辺境伯閣下よりでございます」
エルシェナは手を止めた。
ローデリック・アシュベリー。
先日この屋敷を訪れ、自分の価値を安売りするなとでも言うような目で見た男。その後、情報交換を許す形のごく短い返書は交わしていたが、こんなに早く再び動いてくるとは思っていなかった。
「中身は」
「未開封でございます」
「そう」
エルシェナは封を切った。
中の便箋はやはり無駄のないものだった。読み進めるうち、彼女の表情にごくわずかな変化が生まれる。
グラハムが慎重に尋ねる。
「いかがでしたか」
エルシェナは便箋を畳み、静かに卓へ置いた。
「ずいぶんと真っ直ぐなお話だこと」
「と、申しますと」
「縁談よ」
その一言に、さすがのグラハムも数拍言葉を失った。
「……辺境伯閣下から、正式に」
「ええ。もっとも、今すぐ返事を求めるものではないわ」
エルシェナは便箋を指先で軽く押さえた。
書かれていた内容は簡潔だった。
――いずれ王都の騒ぎが落ち着いたのち、もし貴女が新たな縁談を考える余地を持たれるなら、私は候補として名乗りを上げたい。
甘い文句はない。
気の毒に思っているとも、救いたいとも書いていない。
ただ、彼は彼の立場で、将来の縁談相手として正式に意志を示したのだ。
それがローデリックらしかった。
「まあ、気が早いとお笑いになる方もおられましょうが」
グラハムが慎重に言う。
「辺境伯閣下らしい、とも申せますな」
「ええ」
エルシェナはうなずいた。
「同情で近づく気がないからこそ、今ここで曖昧にせず言ってきたのでしょう」
それは分かりやすい求愛ではない。
だが軽い慰めより、よほど誠実だった。
王太子に捨てられた可哀想な令嬢だから声をかけたのではない。王都の騒ぎを見たうえで、それでもなお価値があると判断したから名乗りを上げる。
そういう意味では、これ以上なく真っ当な話だった。
グラハムは少しだけ口元を和らげる。
「お嬢様を正面から見ている証とも取れます」
「そうね」
エルシェナは便箋をもう一度見た。
自分はまだ王太子との婚約破棄の始末の最中にいる。王家とのやり取りも終わっていない。継母イザベルの不正も、セラフィナの虚構も、すべてがまだ途中だ。
そんな時期に新たな縁談。
普通なら、不謹慎と受け取られかねない。
だがローデリックは、その危うさも含めて承知のうえで書いてきている。
逃げず、濁さず、名乗る。
それがこの男のやり方だった。
「お嬢様は、いかがなさいますか」
「返事は保留よ」
即答だった。
「今すぐ首を縦に振る気はないわ」
「それがよろしいかと」
「でも」
エルシェナは少しだけ目を細めた。
「無礼とも、性急すぎるとも思わなかった」
それはかなり大きな意味を持つ言葉だった。
グラハムもそれを理解しているのだろう。老執事は深くうなずいた。
「辺境伯閣下は、少なくとも王都の男どものように、お嬢様を“捨てられた女”として見てはおられませぬな」
「ええ」
捨てられたから拾う。
傷ものになったから保護する。
そんな気配が一切ないのがよかった。
むしろ逆だ。
彼はエルシェナを、今もっとも高く値がつく相手として見ている。だからこそ、他が躊躇している今のうちに、正式に名乗っておく。
ある意味、とても冷静で、とても打算的だ。
だがその打算は不快ではなかった。
こちらの価値を低く見積もっていない証でもあるからだ。
その夜、公爵の執務室では、エルシェナが父へその話を伝えていた。
ヴァルモン公爵はしばし沈黙し、それから椅子に深くもたれた。
「……アシュベリー辺境伯か」
「はい」
「悪い相手ではない」
「そう思われますか」
「少なくとも、今の王都でお前へ真っ直ぐ縁談を持ち込めるだけの胆力はあるな」
父の言い方に、エルシェナは少しだけ笑った。
確かにそうだ。
今の自分に近づくことは、王家への無言の牽制にもなりうる。エドガーの愚かさが王都に広まりつつあるとはいえ、それでも王太子の元婚約者へ堂々と名乗りを上げるのは、並の貴族には重すぎる。
ローデリックはそれを分かったうえで来ている。
「ただし」
父が続ける。
「今すぐ話を進める必要はない」
「ええ。私もそのつもりはありません」
「まだこちらの始末が終わっていないからな」
エルシェナは静かにうなずいた。
まさにその通りだった。
新しい未来を考えるより先に、終わらせるべきものがある。王家への返しも、継母への処分も、義妹の虚飾を剥がすことも、まだ途中だ。
中途半端なまま次へ進めば、全部が曖昧になる。
それだけは避けたかった。
「ですが、お父様」
「何だ」
「不思議なものですわね」
「何がだ」
「王太子に婚約を捨てられたあとで、ようやく“婚約者候補”としてまともに見られた気がするのです」
その言葉に、父はすぐには返答しなかった。
やがて、低く言う。
「……すまなかったな」
エルシェナは少し目を見開いた。
「何のことでしょう」
「お前を、王太子の婚約者という札のまま長く置きすぎた」
父の声には、静かな悔いが滲んでいた。
エルシェナは何も言わなかった。
否定はできない。
そういう面も確かにあった。
彼女は長く“王太子妃になるはずの公爵令嬢”として扱われ、その札込みでしか見られてこなかった。本人の価値も、実務も、判断力も、すべてその下に埋もれていた。
ローデリックはそこを最初から外して見てきた。
それが、ほかの男たちとの決定的な違いだった。
「返事は、丁寧に保留いたします」
エルシェナは落ち着いて言った。
「今はまだ、こちらの始末を優先すると」
「それでよい」
父はうなずいた。
執務室を出たあと、エルシェナは一人で回廊を歩いた。
窓の外では夜の気配が庭を沈めている。灯りに照らされた石畳は白く、冬の終わりの冷気がガラス越しにも感じられた。
縁談。
その響きはもう、以前とは少し違って聞こえる。
王太子との婚約があった頃、それは家同士の取り決めであり、将来当然そうなるものとして置かれていた。けれど今、ローデリックから届いたそれは、もっと別の形をしている。
彼はエルシェナを“余りもの”として求めてはいない。
王家に捨てられた令嬢を救うつもりでもない。
ただ、自分の隣へ置くに値すると見たから名乗った。
その違いは大きかった。
部屋へ戻ると、グラハムが返書の草案を用意して待っていた。
「お目通しいただけますか」
「お願い」
そこには、礼と、現段階では返答を留保する旨、それでも申し出そのものを真摯に受け止めたことが、過不足なく記されていた。
「いいわ」
エルシェナはうなずく。
「これで出して」
「かしこまりました」
グラハムが一礼する。
そのまま下がろうとした彼を、エルシェナはふと呼び止めた。
「グラハム」
「はい」
「辺境伯閣下は、なぜ今この話を持ってきたのだと思う?」
老執事は少し考えてから答えた。
「お嬢様が今、一番高く売れると見ておられるからでしょう」
その率直さに、エルシェナは思わず笑った。
「言うわね」
「ですが、それは失礼な意味ではございません」
「分かっているわ」
むしろ逆だった。
高く売れる。
つまり、それだけ価値があると見ているということだ。
「……悪くない表現ね」
ごく薄くそう言うと、グラハムもまた静かに微笑んだ。
火の入った暖炉の前で、エルシェナはそっと息をつく。
新しい未来を急ぐつもりはない。
だが、自分にはもう“捨てられたあとの残りもの”として差し出される未来しかないわけではない。
その事実だけでも、十分だった。
そしてそれは、エドガーが思っているより、ずっと痛い形で彼へ返っていく。
お前が捨てたつもりの女には、まだこんな価値がある。
そう、王都の外から示されるのだから。
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