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第二十六話 見苦しいすがりつき
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第二十六話 見苦しいすがりつき
王太子エドガーは、追い詰められるほど自分の立場を見失う男だった。
普通の人間なら、ここまで状況が悪くなれば一度は立ち止まる。なぜこうなったのか、どこで誤ったのか、何を失ったのか。少しでも冷静さがあれば、そうした問いが頭をかすめる。
だがエドガーには、それがない。
彼が考えるのは常に一つだ。
どうすれば自分が不快でなくなるか。
どうすれば自分の立場が戻るか。
どうすれば目の前の不都合を誰かに押しつけられるか。
だから彼は、ついに最も愚かな結論へ辿り着いた。
エルシェナを戻せばいい。
そうすれば全部丸く収まる、と。
その考えに至った時点で、もう彼の中では何もかもが終わっていたのだが、本人だけがそれに気づいていない。
その日、ヴァルモン公爵邸には珍しく王宮からではなく、エドガー個人の名で書状が届いた。
封蝋は王家のものではあるが、文面はひどく短い。
――話がある。会え。
それだけだった。
グラハムがその紙を見て、心底うんざりしたように目を伏せる。
「お嬢様」
「ええ、見せて」
居間で報告書に目を通していたエルシェナは、手渡された書状をざっと読んだ。
そして、ほんの少しだけ眉を上げる。
「……会え、ですって」
「もはや文面を整える気もないようでございますな」
「それとも、整える必要がないと思っているのかしら」
どちらにせよ同じことだった。
まだ王太子である以上、自分が会いたいと言えば相手は来る。そういう感覚が抜けていないのだろう。
エルシェナは紙を机へ置いた。
「断って」
「いつものように、正式な手続きを通せと?」
「ええ」
そう言いかけて、彼女は少し考えた。
そして、ごく薄く笑う。
「……いいえ。今回は会ってあげるわ」
グラハムが目を上げた。
「よろしいのですか」
「ええ。たぶん、向こうはもう言ってはいけないことを言いに来るもの」
その読みは正しかった。
場所はヴァルモン公爵邸の小応接間となった。
王宮へは行かない。向こうの土俵へ乗る気はない。自分の家、自分の空気、自分の席で会う。それだけでも立場の差は十分に示せる。
約束の時間より少し早く、エドガーは苛立ちを隠しきれぬ顔で現れた。
以前のような余裕ある王太子の美しさは、もうかなり薄れている。衣装は上等でも、顔つきが荒れていた。目の下には疲れがあり、口元には不機嫌が刻まれている。
彼は通されるなり、礼もそこそこに言った。
「待たせたな」
その一言だけで、エルシェナはもう勝負がついたと思った。
相手はまだ“自分が上”だと信じている。
だからこそ、この先口にすることがどれほど見苦しいかも分からないのだ。
エルシェナは席を勧めるだけで、自分から言葉はかけなかった。
エドガーはそれを気にした様子もなく座る。
グラハムが茶を置くが、二人とも口をつけない。
短い沈黙のあと、エドガーが口を開いた。
「回りくどい話は嫌いだ」
「そうでしょうね」
エルシェナの返答は静かだった。
その静けさに一瞬だけ眉をひそめたが、エドガーは続けた。
「今の状況は、互いに不利益だ」
「互いに?」
「そうだ。王宮も、ヴァルモン家も、無用な対立で疲弊している」
エルシェナは思わず笑いそうになった。
疲弊しているのは主にそちらだ。こちらは整え、切り、取り立てているだけで、少なくとも混乱してはいない。
だがもちろん口にはしない。
エドガーは、自分がうまく交渉しているつもりらしかった。
「だから、ここで手を打つべきだ」
「手を打つ?」
「そうだ」
彼は少し身を乗り出した。
「お前が戻ればいい」
その瞬間、部屋の空気が完全に変わった。
グラハムでさえ、背後で一瞬だけまばたきを止めたほどだった。
エルシェナはしばらく無言だった。
あまりに予想通りで、しかも予想以上に愚かだったからだ。
エドガーはそれを“考え込んでいる”と受け取ったらしい。
「誤解するな。婚約を元に戻すと言っているわけではない」
そこがまたひどかった。
「だが、お前はヴァルモン家の娘として王宮との調整を再開できるはずだ。表向きは距離を置いたままでも構わん。お前が裏で元通り動けば、今の混乱は収まる」
エルシェナは、そこでようやく目を上げた。
「……本気でおっしゃっているの?」
「当然だ」
エドガーは言い切る。
「そもそも、お前はそういう役目に向いている。感情を捨てて必要なことを処理するのは得意だろう」
それは褒め言葉のつもりだったのかもしれない。
だが実際には、彼の本音がそのまま出ていた。
お前は都合よく働け。
表には出るな。
だが裏で私のために整えろ。
婚約を破棄し、皆の前で断罪し、名誉を傷つけた相手に向かって、それを当然のように言える神経がもう終わっている。
エルシェナは静かに尋ねた。
「殿下」
「何だ」
「私が、なぜそれを引き受けると思われたのですか」
エドガーは苛立ったように言う。
「お前にも利益があるからだ」
「利益?」
「王家と完全に対立して何になる。お前が賢いなら分かるはずだ。ここで引けば、ヴァルモン家の体面も保たれる」
その言葉に、エルシェナはついに微笑んだ。
ただし、それは柔らかな笑みではない。
舞踏会の夜に見せたものより、もっと冷たく、もっと静かな笑みだった。
「……殿下」
「何だ」
「私は一度でも、あなたに何かを返していただいたことがあったかしら」
エドガーが言葉を詰まらせる。
「何を言っている」
「婚約者として立っていた頃も。王太子妃となるはずだった頃も。王宮のために調整し、顔を立て、裏で整えていた頃も」
エルシェナは一つずつ言葉を置く。
「私はずっと差し出す側だったわ」
「それは、お前が婚約者として当然――」
「当然?」
その一言だけが、ぴんと鋭く響いた。
エドガーが黙る。
「では殿下は、何を私へ返してくださったの」
答えはない。
あるはずがなかった。
気遣いも、敬意も、信頼も、何ひとつなかったのだから。
あるのはただ、“王太子の婚約者なのだから働いて当然”という傲慢な前提だけ。
エルシェナはもう一度笑った。
「ありませんわね」
「……っ」
「そうでしょうとも。あなたは最初から、私を人として扱っていなかったもの」
エドガーの顔が赤くなった。
怒りか、羞恥か、あるいはその両方か。
「勝手なことを言うな!」
「勝手?」
「お前はいつだって冷たかった! 私を見下し、何もかも一人で決めているような顔で!」
その言葉は、ほとんど子どもの癇癪だった。
見下していたのではない。
ただ、見限っていたのだ。
頼りにならぬ相手へ期待しないようにしていただけだ。
だがエドガーには、その違いすら分からない。
「セラフィナは違う!」
彼は言い募る。
「素直で、可愛げがあって、私を立てる!」
エルシェナは静かに答える。
「でしたら、その方に支えていただけばよろしいのではなくて?」
その一言で、エドガーの顔が歪んだ。
図星だったからだ。
セラフィナでは支えられない。
もうそれを、彼自身が一番分かっている。
だからこそエルシェナを呼んだ。
だからこそ戻せと言った。
けれど、それを認めることは自尊心が許さない。
エルシェナは、そんな彼をまっすぐ見た。
「殿下。私はもう、あなたの不始末を片づけるための婚約者ではありません」
「……」
「それに」
ここで彼女は、ほんの少しだけ声音を柔らかくした。
その柔らかさが、かえって残酷だった。
「私は一度も、あなたを愛したことはございませんの」
沈黙が落ちた。
それはエドガーにとって、想像していたどんな罵倒より重かった。
愛されていたと思っていたわけではないだろう。
だが少なくとも、自分という王太子の価値にひれ伏していたと思っていた。
それが違った。
最初から、相手は一度も自分を見ていなかった。
それは男として、王太子として、致命的な一撃だった。
エドガーの口が開き、閉じる。
何か言い返そうとして、言葉にならない。
ようやく出たのは、ひどくかすれた声だった。
「……ふざけるな」
だが、その言葉にはもう力がなかった。
エルシェナは立ち上がった。
「お話は終わりです」
「待て」
「待ちません」
「私は王太子だぞ!」
その叫びにも、もう以前のような響きはない。
エルシェナは振り返りもしなかった。
「だから何だと、今さら申し上げる必要がございますか」
それがとどめだった。
グラハムが静かに扉を開ける。
エドガーは立ち上がりかけたが、その時にはもう完全に負けていた。
追いすがれば、ただの惨めな男になる。
だが、黙っていれば何も取り戻せない。
そのどちらも選べず、彼はただ立ち尽くした。
エルシェナは背を向けたまま言う。
「お帰りください、殿下」
その言葉は、かつて婚約者だった男に向けるにはあまりにも冷たく、そしてあまりにも当然だった。
エドガーは結局、何も言えずに出て行った。
王太子としてではなく。
見苦しくすがった挙げ句、何ひとつ得られなかった男として。
王太子エドガーは、追い詰められるほど自分の立場を見失う男だった。
普通の人間なら、ここまで状況が悪くなれば一度は立ち止まる。なぜこうなったのか、どこで誤ったのか、何を失ったのか。少しでも冷静さがあれば、そうした問いが頭をかすめる。
だがエドガーには、それがない。
彼が考えるのは常に一つだ。
どうすれば自分が不快でなくなるか。
どうすれば自分の立場が戻るか。
どうすれば目の前の不都合を誰かに押しつけられるか。
だから彼は、ついに最も愚かな結論へ辿り着いた。
エルシェナを戻せばいい。
そうすれば全部丸く収まる、と。
その考えに至った時点で、もう彼の中では何もかもが終わっていたのだが、本人だけがそれに気づいていない。
その日、ヴァルモン公爵邸には珍しく王宮からではなく、エドガー個人の名で書状が届いた。
封蝋は王家のものではあるが、文面はひどく短い。
――話がある。会え。
それだけだった。
グラハムがその紙を見て、心底うんざりしたように目を伏せる。
「お嬢様」
「ええ、見せて」
居間で報告書に目を通していたエルシェナは、手渡された書状をざっと読んだ。
そして、ほんの少しだけ眉を上げる。
「……会え、ですって」
「もはや文面を整える気もないようでございますな」
「それとも、整える必要がないと思っているのかしら」
どちらにせよ同じことだった。
まだ王太子である以上、自分が会いたいと言えば相手は来る。そういう感覚が抜けていないのだろう。
エルシェナは紙を机へ置いた。
「断って」
「いつものように、正式な手続きを通せと?」
「ええ」
そう言いかけて、彼女は少し考えた。
そして、ごく薄く笑う。
「……いいえ。今回は会ってあげるわ」
グラハムが目を上げた。
「よろしいのですか」
「ええ。たぶん、向こうはもう言ってはいけないことを言いに来るもの」
その読みは正しかった。
場所はヴァルモン公爵邸の小応接間となった。
王宮へは行かない。向こうの土俵へ乗る気はない。自分の家、自分の空気、自分の席で会う。それだけでも立場の差は十分に示せる。
約束の時間より少し早く、エドガーは苛立ちを隠しきれぬ顔で現れた。
以前のような余裕ある王太子の美しさは、もうかなり薄れている。衣装は上等でも、顔つきが荒れていた。目の下には疲れがあり、口元には不機嫌が刻まれている。
彼は通されるなり、礼もそこそこに言った。
「待たせたな」
その一言だけで、エルシェナはもう勝負がついたと思った。
相手はまだ“自分が上”だと信じている。
だからこそ、この先口にすることがどれほど見苦しいかも分からないのだ。
エルシェナは席を勧めるだけで、自分から言葉はかけなかった。
エドガーはそれを気にした様子もなく座る。
グラハムが茶を置くが、二人とも口をつけない。
短い沈黙のあと、エドガーが口を開いた。
「回りくどい話は嫌いだ」
「そうでしょうね」
エルシェナの返答は静かだった。
その静けさに一瞬だけ眉をひそめたが、エドガーは続けた。
「今の状況は、互いに不利益だ」
「互いに?」
「そうだ。王宮も、ヴァルモン家も、無用な対立で疲弊している」
エルシェナは思わず笑いそうになった。
疲弊しているのは主にそちらだ。こちらは整え、切り、取り立てているだけで、少なくとも混乱してはいない。
だがもちろん口にはしない。
エドガーは、自分がうまく交渉しているつもりらしかった。
「だから、ここで手を打つべきだ」
「手を打つ?」
「そうだ」
彼は少し身を乗り出した。
「お前が戻ればいい」
その瞬間、部屋の空気が完全に変わった。
グラハムでさえ、背後で一瞬だけまばたきを止めたほどだった。
エルシェナはしばらく無言だった。
あまりに予想通りで、しかも予想以上に愚かだったからだ。
エドガーはそれを“考え込んでいる”と受け取ったらしい。
「誤解するな。婚約を元に戻すと言っているわけではない」
そこがまたひどかった。
「だが、お前はヴァルモン家の娘として王宮との調整を再開できるはずだ。表向きは距離を置いたままでも構わん。お前が裏で元通り動けば、今の混乱は収まる」
エルシェナは、そこでようやく目を上げた。
「……本気でおっしゃっているの?」
「当然だ」
エドガーは言い切る。
「そもそも、お前はそういう役目に向いている。感情を捨てて必要なことを処理するのは得意だろう」
それは褒め言葉のつもりだったのかもしれない。
だが実際には、彼の本音がそのまま出ていた。
お前は都合よく働け。
表には出るな。
だが裏で私のために整えろ。
婚約を破棄し、皆の前で断罪し、名誉を傷つけた相手に向かって、それを当然のように言える神経がもう終わっている。
エルシェナは静かに尋ねた。
「殿下」
「何だ」
「私が、なぜそれを引き受けると思われたのですか」
エドガーは苛立ったように言う。
「お前にも利益があるからだ」
「利益?」
「王家と完全に対立して何になる。お前が賢いなら分かるはずだ。ここで引けば、ヴァルモン家の体面も保たれる」
その言葉に、エルシェナはついに微笑んだ。
ただし、それは柔らかな笑みではない。
舞踏会の夜に見せたものより、もっと冷たく、もっと静かな笑みだった。
「……殿下」
「何だ」
「私は一度でも、あなたに何かを返していただいたことがあったかしら」
エドガーが言葉を詰まらせる。
「何を言っている」
「婚約者として立っていた頃も。王太子妃となるはずだった頃も。王宮のために調整し、顔を立て、裏で整えていた頃も」
エルシェナは一つずつ言葉を置く。
「私はずっと差し出す側だったわ」
「それは、お前が婚約者として当然――」
「当然?」
その一言だけが、ぴんと鋭く響いた。
エドガーが黙る。
「では殿下は、何を私へ返してくださったの」
答えはない。
あるはずがなかった。
気遣いも、敬意も、信頼も、何ひとつなかったのだから。
あるのはただ、“王太子の婚約者なのだから働いて当然”という傲慢な前提だけ。
エルシェナはもう一度笑った。
「ありませんわね」
「……っ」
「そうでしょうとも。あなたは最初から、私を人として扱っていなかったもの」
エドガーの顔が赤くなった。
怒りか、羞恥か、あるいはその両方か。
「勝手なことを言うな!」
「勝手?」
「お前はいつだって冷たかった! 私を見下し、何もかも一人で決めているような顔で!」
その言葉は、ほとんど子どもの癇癪だった。
見下していたのではない。
ただ、見限っていたのだ。
頼りにならぬ相手へ期待しないようにしていただけだ。
だがエドガーには、その違いすら分からない。
「セラフィナは違う!」
彼は言い募る。
「素直で、可愛げがあって、私を立てる!」
エルシェナは静かに答える。
「でしたら、その方に支えていただけばよろしいのではなくて?」
その一言で、エドガーの顔が歪んだ。
図星だったからだ。
セラフィナでは支えられない。
もうそれを、彼自身が一番分かっている。
だからこそエルシェナを呼んだ。
だからこそ戻せと言った。
けれど、それを認めることは自尊心が許さない。
エルシェナは、そんな彼をまっすぐ見た。
「殿下。私はもう、あなたの不始末を片づけるための婚約者ではありません」
「……」
「それに」
ここで彼女は、ほんの少しだけ声音を柔らかくした。
その柔らかさが、かえって残酷だった。
「私は一度も、あなたを愛したことはございませんの」
沈黙が落ちた。
それはエドガーにとって、想像していたどんな罵倒より重かった。
愛されていたと思っていたわけではないだろう。
だが少なくとも、自分という王太子の価値にひれ伏していたと思っていた。
それが違った。
最初から、相手は一度も自分を見ていなかった。
それは男として、王太子として、致命的な一撃だった。
エドガーの口が開き、閉じる。
何か言い返そうとして、言葉にならない。
ようやく出たのは、ひどくかすれた声だった。
「……ふざけるな」
だが、その言葉にはもう力がなかった。
エルシェナは立ち上がった。
「お話は終わりです」
「待て」
「待ちません」
「私は王太子だぞ!」
その叫びにも、もう以前のような響きはない。
エルシェナは振り返りもしなかった。
「だから何だと、今さら申し上げる必要がございますか」
それがとどめだった。
グラハムが静かに扉を開ける。
エドガーは立ち上がりかけたが、その時にはもう完全に負けていた。
追いすがれば、ただの惨めな男になる。
だが、黙っていれば何も取り戻せない。
そのどちらも選べず、彼はただ立ち尽くした。
エルシェナは背を向けたまま言う。
「お帰りください、殿下」
その言葉は、かつて婚約者だった男に向けるにはあまりにも冷たく、そしてあまりにも当然だった。
エドガーは結局、何も言えずに出て行った。
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