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第二十七話 継母の末路
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第二十七話 継母の末路
イザベルは、まだ自分が完全には負けていないと思っていた。
帳簿を押さえられた。
鍵を取り上げられた。
夫の態度は冷えきり、使用人たちも以前のようには従わない。
それでもなお、公爵夫人という肩書きがある限り、最後のところでは自分が守られると、どこかで信じていた。
長年そうやって生きてきたのだ。
表では穏やかに微笑み、相手の情と体面につけ込んで、最後の一線だけは決して踏み越えさせない。泣けば男は迷い、怒れば使用人は怯え、曖昧に言いくるめれば周囲は面倒を避ける。そうした小さな勝ちの積み重ねで、イザベルはここまで来た。
だから今回も、最後には何とかなると思っていた。
だが、その甘さこそが彼女の終わりだった。
その日、ヴァルモン公爵邸の応接室には、ひどく冷えた空気が満ちていた。
暖炉には火が入っている。
けれど、部屋の温度そのものは上がらない。
それほどまでに、そこにいる人間たちの目が冷たかった。
上座にはヴァルモン公爵。
その少し後ろにグラハム。
そして横には、会計係と家令。
さらに、机の上には帳簿、控え、納品書、署名見本、裏帳簿の写しまで整然と並べられている。
逃げ道を潰すための席だった。
イザベルはそこへ呼ばれた時点で、嫌な予感をはっきりと感じていた。
けれど、部屋へ入ったあとも彼女は崩れない。
薄紫のドレスをまとい、髪も乱さず、あくまで公爵夫人として静かに入室する。
この場で取り乱せば、自分の負けを認めることになると分かっているからだ。
「お呼びと伺いましたわ」
柔らかい声だった。
だが、公爵はそれに何の温度も返さない。
「座れ」
その一言に、イザベルの胸の奥がひやりとした。
夫婦の会話ではない。
完全に、処分を前にした者への口調だった。
イザベルは椅子へ腰を下ろす。
視線を机へ向けた瞬間、さすがに指先が強張った。
全部、並んでいる。
しかも、ただの抜粋ではない。
照合まで済んでいる。
こちらが言い逃れに使えそうな余白を、最初から潰してある並べ方だ。
公爵が低く口を開く。
「最後に聞く」
その声音に、もう情けはなかった。
「これらの支出、署名、礼金、改ざん。お前は関わっていないと言うか」
イザベルは一呼吸置いた。
ここで認めるわけにはいかない。
認めれば終わる。
だから、まだ否定するしかない。
「……わたくしは、家のために動いていただけですわ」
公爵の目が冷たくなる。
「質問に答えろ」
「社交にはお金がかかります。公爵夫人としての交際も、王宮とのお付き合いも、すべて家のため――」
「エルシェナの署名を真似たのも、家のためか」
その一言で、イザベルは一瞬だけ息を詰めた。
やはりそこがいちばん痛い。
衣装費や交際費ならまだ“必要な支出でした”と言い張る余地がある。
だが署名偽装だけは違う。
あれは善意では済まない。
最初から誰かに責任を被せるための行為だからだ。
それでもイザベルは、顔だけは崩さなかった。
「似た筆跡になってしまったのかもしれませんわ」
その場にいた会計係が、初めて露骨に顔をしかめた。
グラハムの目もさらに冷える。
公爵は机の上から一枚の紙を取り上げた。
「これは、同じ時期のエルシェナの実筆だ」
次に別の一枚を取る。
「そしてこちらが、お前が使った偽装書類」
二枚が並べられる。
誰が見ても違う。
だが、雑に通すには似せてある。
つまり意図が明白だった。
公爵は言う。
「真似たのではない。真似ようとしたのだ」
イザベルは、そこで初めて笑みを失った。
沈黙が落ちる。
もう涙の芝居も効かない。
善意の仮面も通らない。
夫の曖昧さに賭ける余地もない。
ならば残るのは、逆に怒ることだけだった。
「そこまで言うのなら、あなた方は最初からわたくしを罪人にするおつもりなのね」
声が一段高くなる。
「わたくしがどれだけこの家に尽くしてきたかも知らずに!」
公爵は動じない。
「尽くした?」
「ええ、そうですわ! あの子が冷たい顔で立っていただけの間、社交を回し、屋敷を整え、人の顔色を見て、この家の体面を守ってきたのは誰だと思っているの!」
それは半分だけ本音だった。
イザベルは確かに働いてきた。
だがその働きは、家のためであると同時に、自分の居場所を強くするためでもあった。
公爵は静かに返す。
「その結果が、横領と改ざんか」
「必要だったのです!」
ついにイザベルは叫んだ。
「必要だったからやったのよ! セラフィナをあの子の影に埋もれさせたくなかった! 少し飾って、少し押し上げて、何が悪いの!」
その瞬間、部屋の空気が完全に凍った。
本人が認めたに等しかった。
グラハムがほんのわずかに目を伏せる。
会計係は紙の上へ視線を落とし、家令は無言で口を引き結ぶ。
イザベル自身も、言ったあとで気づいたのだろう。
だが遅い。
もう戻せない。
「……そうか」
公爵の声は低かった。
怒鳴りもしない。
その静けさが、むしろ終わりを告げていた。
「お前にとっては、家の金も、長女の名も、すべてセラフィナを飾るための道具だったのだな」
「違う、わたくしは――」
「違わん」
初めて、夫が彼女の言葉を真正面から切り捨てた。
イザベルの喉が鳴る。
「これ以上の弁明は不要だ」
公爵は立ち上がった。
「イザベル・ヴァルモン」
その呼び方に、彼女はぞっとした。
“妻”ではない。
“奥様”でもない。
ただ名前だけ。
「お前の不正は、公爵夫人として看過できる範囲を超えている」
「……あなた」
「本日をもって、お前から屋敷の一切の管理権を剥奪する」
イザベルは目を見開く。
だが公爵は止まらない。
「金庫、帳簿、私室の出入り、使用人への命令権、すべてだ」
「待って」
「さらに、公爵夫人としての対外的な役割も停止する。以後、社交への顔出しは禁止。来客との接触も制限する」
「待ちなさい!」
ついにイザベルが立ち上がった。
椅子が激しく音を立てる。
「そんなこと、勝手に決められると思っているの!?」
「決める」
「わたくしは公爵夫人よ!」
その叫びに、グラハムが初めて口を開いた。
「でしたら、公爵夫人らしくお振る舞いになるべきでしたな」
あまりにも静かな声音だった。
だが、その一言はイザベルの顔を真っ赤にした。
「あなたのような執事風情が……!」
「奥様」
グラハムは訂正しなかった。
もう彼の中で、この女は“奥様”ですらなくなりつつあるのだろう。
「失礼ながら、ここに並んでいるのは数字と証拠でございます。立場で消えるものではありません」
イザベルは息を荒くした。
呼吸が浅い。
怒りと恐怖で頭が熱いのに、手足だけが冷たい。
こんなはずではなかった。
もっと泣けばよかったのか。
もっと早く誰かへ責任を押しつけるべきだったのか。
セラフィナをもっと上手く使うべきだったのか。
考えがぐちゃぐちゃになる。
けれど現実は冷酷だった。
帳簿はもう戻らない。
署名偽装も消えない。
夫は味方ではない。
使用人たちも、もう彼女を守らない。
逃げ道がない。
公爵が最後に告げる。
「処分の最終決定は数日内に下す」
イザベルが震える声で言う。
「……処分?」
「財産の返還、身分の整理、今後の処置だ」
その言い方は、もう家族へのものではなかった。
完全に、家を荒らした者へのものだった。
イザベルはその場で何かに縋るように視線を巡らせた。
だが、誰とも目が合わない。
夫は冷たい。
執事は動かない。
会計係も家令も、ただ事務として立っている。
そこで彼女はようやく理解した。
自分は、もう誰からも守られない。
「……セラフィナは」
ぽつりと出たのは、その名だった。
「娘には関わらせないで」
公爵の目がさらに冷たくなる。
「今さら母親の顔をするのか」
その言葉が、イザベルにとって何より痛かった。
彼女は何か言い返そうとした。
だが言葉は出ない。
結局、最後まで娘のためだったと信じたいのだろう。
けれど実際には、娘を飾ることで自分の立場を固めていただけだ。
そのことを一番知っているのは、他でもない彼女自身だった。
「下がれ」
公爵の声が落ちる。
それは命令だった。
イザベルはその場に立ち尽くしたが、やがて膝が崩れそうになるのを堪えながら、どうにか背筋を伸ばした。
ここで這いつくばれば、本当に終わる。
だから最後まで、公爵夫人の形だけは保とうとした。
「……覚えていなさい」
絞り出すようにそう言ったが、その言葉にはもう何の力もない。
誰も恐れない。
誰も慌てない。
ただ一人の落ちぶれた女が、去り際に虚勢を張っただけに過ぎなかった。
イザベルが部屋を出たあと、しばらく誰も口を開かなかった。
やがてグラハムが低く言う。
「旦那様」
「分かっている」
公爵は椅子へ腰を下ろした。
ひどく疲れた顔だった。
「もう戻せん」
その一言に、誰も異を唱えない。
当然だった。
帳簿の改ざんも、署名偽装も、裏金も、全部が揃っている。
ここまで来て“家族だから穏便に”などと言えば、むしろ公爵家そのものが笑われる。
グラハムは一礼する。
「お嬢様にもご報告いたします」
「ああ」
執務室を出たグラハムは、まっすぐエルシェナのもとへ向かった。
彼女は静かな居間で本を閉じ、報告を受ける。
グラハムは簡潔に、しかし一つも漏らさず伝えた。
イザベルが追い詰められたこと。
感情的に口を滑らせたこと。
権限剥奪と、処分の宣告がなされたこと。
すべてを聞いたあと、エルシェナはしばらく黙っていた。
そして、ようやく言う。
「……そう」
それだけだった。
勝ち誇るでもなく、驚くでもない。
ただ、当然そこへ至ったという顔で。
「旦那様は、かなりお疲れのご様子でした」
「でしょうね」
「奥様は最後まで、お嬢様のお名前を使おうとなさいました」
エルシェナは目を伏せた。
「でも、もう届かなかった」
「はい」
静かな沈黙が落ちる。
やがてエルシェナは顔を上げた。
その目は冷たかった。
「ここから先は、お義母様ではないわ」
「はい」
「ただの加害者として処理するだけよ」
その声音には、一片の揺らぎもなかった。
継母の末路は、もう始まっている。
そしてそれは、ここからさらに無残な形へ落ちていくことになる。
イザベルは、まだ自分が完全には負けていないと思っていた。
帳簿を押さえられた。
鍵を取り上げられた。
夫の態度は冷えきり、使用人たちも以前のようには従わない。
それでもなお、公爵夫人という肩書きがある限り、最後のところでは自分が守られると、どこかで信じていた。
長年そうやって生きてきたのだ。
表では穏やかに微笑み、相手の情と体面につけ込んで、最後の一線だけは決して踏み越えさせない。泣けば男は迷い、怒れば使用人は怯え、曖昧に言いくるめれば周囲は面倒を避ける。そうした小さな勝ちの積み重ねで、イザベルはここまで来た。
だから今回も、最後には何とかなると思っていた。
だが、その甘さこそが彼女の終わりだった。
その日、ヴァルモン公爵邸の応接室には、ひどく冷えた空気が満ちていた。
暖炉には火が入っている。
けれど、部屋の温度そのものは上がらない。
それほどまでに、そこにいる人間たちの目が冷たかった。
上座にはヴァルモン公爵。
その少し後ろにグラハム。
そして横には、会計係と家令。
さらに、机の上には帳簿、控え、納品書、署名見本、裏帳簿の写しまで整然と並べられている。
逃げ道を潰すための席だった。
イザベルはそこへ呼ばれた時点で、嫌な予感をはっきりと感じていた。
けれど、部屋へ入ったあとも彼女は崩れない。
薄紫のドレスをまとい、髪も乱さず、あくまで公爵夫人として静かに入室する。
この場で取り乱せば、自分の負けを認めることになると分かっているからだ。
「お呼びと伺いましたわ」
柔らかい声だった。
だが、公爵はそれに何の温度も返さない。
「座れ」
その一言に、イザベルの胸の奥がひやりとした。
夫婦の会話ではない。
完全に、処分を前にした者への口調だった。
イザベルは椅子へ腰を下ろす。
視線を机へ向けた瞬間、さすがに指先が強張った。
全部、並んでいる。
しかも、ただの抜粋ではない。
照合まで済んでいる。
こちらが言い逃れに使えそうな余白を、最初から潰してある並べ方だ。
公爵が低く口を開く。
「最後に聞く」
その声音に、もう情けはなかった。
「これらの支出、署名、礼金、改ざん。お前は関わっていないと言うか」
イザベルは一呼吸置いた。
ここで認めるわけにはいかない。
認めれば終わる。
だから、まだ否定するしかない。
「……わたくしは、家のために動いていただけですわ」
公爵の目が冷たくなる。
「質問に答えろ」
「社交にはお金がかかります。公爵夫人としての交際も、王宮とのお付き合いも、すべて家のため――」
「エルシェナの署名を真似たのも、家のためか」
その一言で、イザベルは一瞬だけ息を詰めた。
やはりそこがいちばん痛い。
衣装費や交際費ならまだ“必要な支出でした”と言い張る余地がある。
だが署名偽装だけは違う。
あれは善意では済まない。
最初から誰かに責任を被せるための行為だからだ。
それでもイザベルは、顔だけは崩さなかった。
「似た筆跡になってしまったのかもしれませんわ」
その場にいた会計係が、初めて露骨に顔をしかめた。
グラハムの目もさらに冷える。
公爵は机の上から一枚の紙を取り上げた。
「これは、同じ時期のエルシェナの実筆だ」
次に別の一枚を取る。
「そしてこちらが、お前が使った偽装書類」
二枚が並べられる。
誰が見ても違う。
だが、雑に通すには似せてある。
つまり意図が明白だった。
公爵は言う。
「真似たのではない。真似ようとしたのだ」
イザベルは、そこで初めて笑みを失った。
沈黙が落ちる。
もう涙の芝居も効かない。
善意の仮面も通らない。
夫の曖昧さに賭ける余地もない。
ならば残るのは、逆に怒ることだけだった。
「そこまで言うのなら、あなた方は最初からわたくしを罪人にするおつもりなのね」
声が一段高くなる。
「わたくしがどれだけこの家に尽くしてきたかも知らずに!」
公爵は動じない。
「尽くした?」
「ええ、そうですわ! あの子が冷たい顔で立っていただけの間、社交を回し、屋敷を整え、人の顔色を見て、この家の体面を守ってきたのは誰だと思っているの!」
それは半分だけ本音だった。
イザベルは確かに働いてきた。
だがその働きは、家のためであると同時に、自分の居場所を強くするためでもあった。
公爵は静かに返す。
「その結果が、横領と改ざんか」
「必要だったのです!」
ついにイザベルは叫んだ。
「必要だったからやったのよ! セラフィナをあの子の影に埋もれさせたくなかった! 少し飾って、少し押し上げて、何が悪いの!」
その瞬間、部屋の空気が完全に凍った。
本人が認めたに等しかった。
グラハムがほんのわずかに目を伏せる。
会計係は紙の上へ視線を落とし、家令は無言で口を引き結ぶ。
イザベル自身も、言ったあとで気づいたのだろう。
だが遅い。
もう戻せない。
「……そうか」
公爵の声は低かった。
怒鳴りもしない。
その静けさが、むしろ終わりを告げていた。
「お前にとっては、家の金も、長女の名も、すべてセラフィナを飾るための道具だったのだな」
「違う、わたくしは――」
「違わん」
初めて、夫が彼女の言葉を真正面から切り捨てた。
イザベルの喉が鳴る。
「これ以上の弁明は不要だ」
公爵は立ち上がった。
「イザベル・ヴァルモン」
その呼び方に、彼女はぞっとした。
“妻”ではない。
“奥様”でもない。
ただ名前だけ。
「お前の不正は、公爵夫人として看過できる範囲を超えている」
「……あなた」
「本日をもって、お前から屋敷の一切の管理権を剥奪する」
イザベルは目を見開く。
だが公爵は止まらない。
「金庫、帳簿、私室の出入り、使用人への命令権、すべてだ」
「待って」
「さらに、公爵夫人としての対外的な役割も停止する。以後、社交への顔出しは禁止。来客との接触も制限する」
「待ちなさい!」
ついにイザベルが立ち上がった。
椅子が激しく音を立てる。
「そんなこと、勝手に決められると思っているの!?」
「決める」
「わたくしは公爵夫人よ!」
その叫びに、グラハムが初めて口を開いた。
「でしたら、公爵夫人らしくお振る舞いになるべきでしたな」
あまりにも静かな声音だった。
だが、その一言はイザベルの顔を真っ赤にした。
「あなたのような執事風情が……!」
「奥様」
グラハムは訂正しなかった。
もう彼の中で、この女は“奥様”ですらなくなりつつあるのだろう。
「失礼ながら、ここに並んでいるのは数字と証拠でございます。立場で消えるものではありません」
イザベルは息を荒くした。
呼吸が浅い。
怒りと恐怖で頭が熱いのに、手足だけが冷たい。
こんなはずではなかった。
もっと泣けばよかったのか。
もっと早く誰かへ責任を押しつけるべきだったのか。
セラフィナをもっと上手く使うべきだったのか。
考えがぐちゃぐちゃになる。
けれど現実は冷酷だった。
帳簿はもう戻らない。
署名偽装も消えない。
夫は味方ではない。
使用人たちも、もう彼女を守らない。
逃げ道がない。
公爵が最後に告げる。
「処分の最終決定は数日内に下す」
イザベルが震える声で言う。
「……処分?」
「財産の返還、身分の整理、今後の処置だ」
その言い方は、もう家族へのものではなかった。
完全に、家を荒らした者へのものだった。
イザベルはその場で何かに縋るように視線を巡らせた。
だが、誰とも目が合わない。
夫は冷たい。
執事は動かない。
会計係も家令も、ただ事務として立っている。
そこで彼女はようやく理解した。
自分は、もう誰からも守られない。
「……セラフィナは」
ぽつりと出たのは、その名だった。
「娘には関わらせないで」
公爵の目がさらに冷たくなる。
「今さら母親の顔をするのか」
その言葉が、イザベルにとって何より痛かった。
彼女は何か言い返そうとした。
だが言葉は出ない。
結局、最後まで娘のためだったと信じたいのだろう。
けれど実際には、娘を飾ることで自分の立場を固めていただけだ。
そのことを一番知っているのは、他でもない彼女自身だった。
「下がれ」
公爵の声が落ちる。
それは命令だった。
イザベルはその場に立ち尽くしたが、やがて膝が崩れそうになるのを堪えながら、どうにか背筋を伸ばした。
ここで這いつくばれば、本当に終わる。
だから最後まで、公爵夫人の形だけは保とうとした。
「……覚えていなさい」
絞り出すようにそう言ったが、その言葉にはもう何の力もない。
誰も恐れない。
誰も慌てない。
ただ一人の落ちぶれた女が、去り際に虚勢を張っただけに過ぎなかった。
イザベルが部屋を出たあと、しばらく誰も口を開かなかった。
やがてグラハムが低く言う。
「旦那様」
「分かっている」
公爵は椅子へ腰を下ろした。
ひどく疲れた顔だった。
「もう戻せん」
その一言に、誰も異を唱えない。
当然だった。
帳簿の改ざんも、署名偽装も、裏金も、全部が揃っている。
ここまで来て“家族だから穏便に”などと言えば、むしろ公爵家そのものが笑われる。
グラハムは一礼する。
「お嬢様にもご報告いたします」
「ああ」
執務室を出たグラハムは、まっすぐエルシェナのもとへ向かった。
彼女は静かな居間で本を閉じ、報告を受ける。
グラハムは簡潔に、しかし一つも漏らさず伝えた。
イザベルが追い詰められたこと。
感情的に口を滑らせたこと。
権限剥奪と、処分の宣告がなされたこと。
すべてを聞いたあと、エルシェナはしばらく黙っていた。
そして、ようやく言う。
「……そう」
それだけだった。
勝ち誇るでもなく、驚くでもない。
ただ、当然そこへ至ったという顔で。
「旦那様は、かなりお疲れのご様子でした」
「でしょうね」
「奥様は最後まで、お嬢様のお名前を使おうとなさいました」
エルシェナは目を伏せた。
「でも、もう届かなかった」
「はい」
静かな沈黙が落ちる。
やがてエルシェナは顔を上げた。
その目は冷たかった。
「ここから先は、お義母様ではないわ」
「はい」
「ただの加害者として処理するだけよ」
その声音には、一片の揺らぎもなかった。
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翌日、冒険者ギルドで鑑定を行った結果、エマの腕輪は高い防御効果を持つことが判明。さらに彼女自身を鑑定すると、なんと「付与特化型聖女」であることが明らかになる。聖女が付与した魔道具は現実の力として強く発現するのだ。
価値がないと切り捨てられた人生は、ここでは確かな力となった。スペイラ帝国で、聖女エマの新しい人生が、静かに、そして輝かしく始まる。
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