『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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22話 奪われない静けさ

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22話 奪われない静けさ

 夜明け前、まだ空が色を持たない時間に、ファーファは目を覚ました。

 眠りは十分だった。夢も見ていない。理由もなく目が覚めることが、ここでは自然になっている。王都では、目覚めには必ず原因があった。鐘、足音、予定、責務。ここには、それがない。

 しばらく寝台の上で呼吸を整え、起き上がる。床に足を下ろした瞬間、ひやりとした感触が伝わる。寒さではない。時間が早いだけだ。

 外套を羽織り、扉を開ける。空気は澄み、山はまだ眠っているように見える。鳥の声もなく、風もない。世界が、何も要求してこない時間帯。

 箱は、置かれていた。

 いつもより少しだけ奥に寄せられている。夜露を避けるためだろう。そんな細かな調整が、ここでは大きな意味を持つ。誰かが見ているからではなく、誰かが考えているからだ。

 ファーファは箱を中に運び、蓋を開けた。中身は変わらない。保存食、乾燥野菜、油、布。だが今日は、余計なものがひとつもない。過不足なく、淡々と揃えられている。

「……奪う気が、まったくないのね」

 ふと、そんな言葉が口をついた。

 王都では、与えられるものは必ず何かを奪う前提だった。自由、時間、判断権。恩恵は、代償の形で回収される。だからこそ、何も要求されない支援は、逆に信用されなかった。

 ここでは違う。

 物資は届く。
 だが、生活には踏み込まない。

 それは、契約で守られている静けさだ。

 必要な分だけ取り出し、棚に置く。残りは箱に戻す。管理しすぎない。把握しすぎない。把握は、支配の入口になる。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は湯気がよく立つ。外気との温度差があるのだろう。椅子に腰掛け、湯気の向こうで少しずつ明るくなる窓を見る。

 静けさは、奪われやすい。

 大きな音や事件だけでなく、小さな善意や正義感でも、簡単に壊れる。「あなたのため」という言葉は、静けさにとって最大の脅威だった。

 午前中、本を読む。今日は同じ頁を何度も読み返した。内容が頭に入らないわけではない。ただ、先に進む必要がないだけだ。

 昼、簡単な食事を取る。味はいつも通り。特別でも、粗末でもない。評価しない食事は、胃に優しい。

 午後、外に出る。家の周囲を一回りし、山の気配を確かめる。動物の足跡はない。人の気配もない。ここは、奪う者にとって旨味がない場所だ。

 それが、守りになっている。

 王都では、静けさは力の空白だった。空白は、すぐに埋められる。噂、命令、善意、野心。何かが必ず入り込む。

 ここでは、空白のままでいい。

 夕方、火を入れ、室内を温める。炎の音は小さく、主張しない。薪が燃えるのを見ながら、ファーファは思う。

 ――ここでは、何も奪われない。

 時間も、判断も、静けさも。

 奪われないということは、守るために戦う必要がないということだ。守らなくていい生活は、疲れない。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。外は完全に暗く、音もない。

 ファーファ・ノクティスは、
 奪われない静けさの中で、
 今日も無事に一日を終えた。

 それは勝利でも、逃走でもない。
 ただ、静けさが静けさのまま残っている、
 それだけの事実だった。

 目を閉じると、
 世界は、何も持っていかなかった。
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