『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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26話 変わらないことを守る労力

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26話 変わらないことを守る労力

 朝、ファーファは小さく息を吐いた。

 何か重い夢を見たわけではない。ただ、夜の冷え込みがわずかに強かったらしく、目覚めた瞬間に身体が「調整」を求めてきただけだ。寝台の上で一度体を丸め、次にゆっくり伸ばす。筋肉が抵抗なく応じるのを確かめてから、起き上がる。

 ここでは、身体の声を無視する必要がない。

 外套を羽織り、扉を開ける。空気は澄み、空は高い。風は弱く、山は相変わらず無言だ。箱は、置かれていた。だが今日は、いつもと微妙に違う。

 位置は同じ。
 大きさも同じ。
 けれど、地面に敷かれた布が新しい。

「……湿気対策、か」

 誰に向けた言葉でもなく、ただの確認だった。箱を中へ運び、蓋を開ける。中身は変わらない。保存食、乾燥野菜、油、布。量も質も一定。ただ、防湿の包みが増え、詰め方が少し変わっている。

 変化は、最小限。

 だが、その最小限を維持するために、誰かが考えている。判断し、手配し、実行している。それは好意ではない。契約に基づく作業だ。だからこそ、安定している。

 ファーファは必要な分だけ取り出し、棚に置いた。残りは箱に戻す。今日は、箱の底に溜まった小さな砂や土を払い落とす。ほんの数分の作業だが、放っておけば積もる類のものだ。

 ――変わらないというのは、
 ――何もしないことではない。

 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 王都では「維持」は評価されなかった。変化し、拡大し、成果を見せて初めて価値があるとされた。だが、その結果、壊れるものも多かった。

 ここでは違う。

 変わらない状態を保つために、
 最低限の労力が、静かに注がれている。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は少し時間をかけて湯を温めた。急ぐ理由がないからだ。椅子に腰掛け、カップを手に取る。香りは穏やかで、主張しない。

 午前中、本を読む。今日は数頁進んだところで、文字が頭に入らなくなった。疲れではない。集中を切っていい合図だ。本を閉じ、窓の外を見る。

 雲がゆっくりと形を変えている。
 それは努力の結果ではない。

 だが、雲が雲であり続けるためには、
 空が空でなければならない。

 昼、簡単な食事を取る。今日は温かいスープに少し手を加えた。乾燥野菜を戻す時間を長めに取り、味を整える。凝った料理ではないが、「何もしない」だけでは得られない満足がある。

 労力は、ゼロではない。
 だが、過剰でもない。

 午後、外に出る。家の周囲を一回りし、地面の様子を見る。湿り気が増えている。歩く場所を少し変え、踏み固めないように気を配る。これもまた、小さな調整だ。

 王都では、こうした配慮は「取るに足らない」と切り捨てられた。数字にならず、報告にもならない。だが、積み重ねがなければ、安定は続かない。

 夕方、火を入れる。今日は薪の置き方を少し変えた。乾き具合を均等にするためだ。ほんのわずかな違いだが、冬になれば効いてくる。

 ファーファは炎を見つめながら、思う。

 ――私は、働いていない。

 それは事実だ。
 だが、何もしていないわけではない。

 変わらない日常を保つための、
 小さな労力を、選んでいる。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。身体に疲労は残っていない。むしろ、適度に使った分だけ、眠りは深くなりそうだった。

 今日も、大きな変化はなかった。
 だが、変わらない状態は守られた。

 ファーファ・ノクティスは、
 変わらないことを守る労力を、
 労働とも、成果とも呼ばず、
 ただ生活の一部として受け入れている。

 静けさは、放っておくと失われる。
 だからこそ、静かに手を添える。

 その程度でいい。
 それ以上は、要らなかった。
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