働かない令嬢は、すでに幸せです  ――婚約破棄? それより紅茶の時間をください

鷹 綾

文字の大きさ
1 / 40

第1話 婚約破棄? それより寝かせてください

しおりを挟む
第1話 婚約破棄? それより寝かせてください

 ――人生には、転ぶときに思い出す記憶というものがあるらしい。

 アーデルハイド公爵家の大理石の階段で、私は見事に足を滑らせた。
 視界がぐるりと回り、ふわりと浮くような感覚の直後、後頭部に鈍い衝撃。

 ――あ、これ、痛いやつ。

 そう思った瞬間、頭の中に流れ込んできたのは、この世界の記憶ではなかった。

 終電。
 光らないパソコン。
 鳴り続けるチャット。
 「これ、今日中で」
 「悪いけど君しかいない」

 ブラック企業に勤め、心も身体もすり減らしていた、前世の私。

「……ああ、そうか」

 階段の途中で仰向けに転がりながら、私は妙に冷静だった。

「私、死ぬほど働いて、死ぬほど後悔して、死ぬほど疲れて……それで、今は――」

 ――公爵令嬢、レイラ・フォン・アーデルハイド。

 目を開けると、見慣れた高い天井と、慌てふためく使用人たちの顔が視界に入る。

「お嬢様! しっかりしてください!」 「すぐ医師を!」

 大丈夫、と言おうとして、喉が乾いていることに気づいた。
 代わりに小さく息を吐く。

「……ねえ、ちょっと待って」

 私の声に、周囲が一斉に静まる。

「今、何が起きてるの?」

 すると、侍女のマーガレットが、おずおずと前に出てきた。

「……本日、王宮にて、王太子殿下より正式に……婚約破棄が告げられました。その後、お戻りになって……」

「ああ、そうだったわね」

 思い出す。
 王宮の広間。
 淡々と読み上げられた文書。
 私の隣で、気まずそうに視線を逸らす王太子。

 浮気? 心変わり? 政略?

 正直、どうでもよかった。

「それで、私、ショックで階段から落ちたってこと?」

「い、いえ……ショックを受けていらっしゃるご様子では……」

 マーガレットは言葉を濁した。
 周囲の使用人たちも、なぜか困惑している。

 私は内心で頷いた。

 そうだろう。
 私は泣いていなかったし、怒ってもいなかった。

 むしろ――

「婚約、破棄……」

 その言葉を口にして、胸の奥が、すうっと軽くなる。

 前世の記憶がはっきりと蘇った今、私は分かっていた。

 結婚。
 王太子妃。
 社交、政務、派閥、責任。

 ――全部、仕事じゃない。

 しかも、超・激務の。

「……よかった」

 ぽつりと漏れた私の本音に、周囲が凍りつく。

「お、お嬢様……?」 「よ、よかった、とは……?」

 私は天井を見上げたまま、心からそう思っていた。

 婚約が続いていたら、きっと私はまた“働かされる側”になっていた。
 立場は違えど、前世と同じだ。

「復讐? 見返す? 後悔させる?」

 そんなもの、もうどうでもいい。

 だって私は――

「……疲れたのよ。前世で、十分すぎるほど」

 身体を起こそうとすると、医師が慌てて止めに入る。

「お嬢様、まだ安静に――」

「ええ、分かってるわ。今日はもう、何もしません」

 きっぱりと言うと、部屋の空気がさらにざわついた。

「何もしない……?」 「それは、その……」

 私は、ゆっくりと微笑んだ。

「そう。何もしないの。働かない。頑張らない。考えすぎない」

 前世で学んだ、たったひとつの真理。

 ――無理をした人間から、壊れていく。

「婚約が破棄されたなら、私はもう王太子妃になる必要もない。
 なら、公爵令嬢として、静かに、優雅に、好きに生きればいいでしょう?」

 沈黙。

 やがて、誰かがごくりと唾を飲む音がした。

 私は布団に身を沈め、目を閉じる。

「というわけで……今日はもう休みます。
 起こすのは、お茶の時間だけでお願いします」

「お、お嬢様!?」

 驚く声を背に、私は思った。

 ――復讐しなくてもいい。
 ――見返さなくてもいい。

 ただ、もう二度と、無理はしない。

 こうして私は決めたのだ。

 何もしない公爵令嬢として、生きていくと。

 ――それが、後にどれほど周囲を巻き込むことになるかも知らずに。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~

由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。 両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。 そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。 王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。 ――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

あの日々に戻りたくない!自称聖女の義妹に夫と娘を奪われた妃は、死に戻り聖女の力で復讐を果たす

青の雀
恋愛
公爵令嬢スカーレット・ロッテンマイヤーには、前世の記憶がある。 幼いときに政略で結ばれたジェミニ王国の第1王子ロベルトと20歳の時に結婚した。 スカーレットには、7歳年下の義妹リリアーヌがいるが、なぜかリリアーヌは、ロッテンマイヤー家に来た時から聖女様を名乗っている。 ロッテンマイヤーは、代々異能を輩出している家柄で、元は王族 物語は、前世、夫に殺されたところから始まる。

幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係

紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。 顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。 ※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろうにも掲載中です)

妻よりも幼馴染が大事? なら、家と慰謝料はいただきます

佐藤 美奈
恋愛
公爵令嬢セリーヌは、隣国の王子ブラッドと政略結婚を果たし、幼い娘クロエを授かる。結婚後は夫の王領の離宮で暮らし、義王家とも程よい関係を保ち、領民に親しまれながら穏やかな日々を送っていた。 しかし数ヶ月前、ブラッドの幼馴染である伯爵令嬢エミリーが離縁され、娘アリスを連れて実家に戻ってきた。元は豊かな家柄だが、母子は生活に困っていた。 ブラッドは「昔から家族同然だ」として、エミリー母子を城に招き、衣装や馬車を手配し、催しにも同席させ、クロエとアリスを遊ばせるように勧めた。 セリーヌは王太子妃として堪えようとしたが、だんだんと不満が高まる。

【完結】恋は、終わったのです

楽歩
恋愛
幼い頃に決められた婚約者、セオドアと共に歩む未来。それは決定事項だった。しかし、いつしか冷たい現実が訪れ、彼の隣には別の令嬢の笑顔が輝くようになる。 今のような関係になったのは、いつからだったのだろう。 『分からないだろうな、お前のようなでかくて、エマのように可愛げのない女には』 身長を追い越してしまった時からだろうか。  それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。 あるいは――あの子に出会った時からだろうか。 ――それでも、リディアは平然を装い続ける。胸に秘めた思いを隠しながら。

勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。 いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。 ただし、後のことはどうなっても知りませんよ? * 他サイトでも投稿 * ショートショートです。あっさり終わります

処理中です...