働かない令嬢は、すでに幸せです  ――婚約破棄? それより紅茶の時間をください

鷹 綾

文字の大きさ
40 / 40

第40話 働かない令嬢、何も背負わずに生きていく

しおりを挟む
第40話 働かない令嬢、何も背負わずに生きていく

 朝の光が、
 ゆっくりとカーテンの隙間から差し込んでいた。

 眩しすぎず、
 急かすこともない、
 ちょうどいい朝。

 私はベッドの中で一度寝返りを打ち、
 そのまま、もう少しだけ目を閉じる。

 ――起きなくても、
 何も困らない。

 その事実が、
 今でも少し不思議だった。

 前世では、
 目覚まし時計が鳴る前から
 心臓が重くなっていた。

 遅れたら怒られる。
 休めば迷惑がかかる。
 自分が抜ければ、
 全部止まる。

 そんな呪いみたいな思い込みが、
 私を縛っていた。

 けれど今は違う。

 私は、
 誰にも呼ばれていない。

 誰の期待も、
 背負っていない。

 それなのに――
 世界は、
 ちゃんと朝を迎えている。

「……起きましょうか」

 そう呟いて、
 ようやくベッドを抜け出す。

 廊下に出ると、
 いつも通りの屋敷の音がした。

 食器が触れ合う音。
 遠くで聞こえる笑い声。
 規則正しい足音。

 何一つ、
 変わっていない。

「おはようございます、お嬢様」

 マーガレットが微笑む。

「よく眠れましたか?」

「ええ。
 とても」

 それは、
 嘘でも遠慮でもなかった。

 朝食の席。

 紅茶の香りが立ち上る。

 私はクロワッサンを手に取り、
 ふと、窓の外を見る。

 ぶどう畑の向こうに、
 穏やかな空。

「……本当に、
 何も起きないわね」

 思わず漏れた言葉に、
 マーガレットが小さく笑った。

「平和、というものです」

「そうね」

 平和。

 前世では、
 夢物語みたいな言葉だった。

 食後、
 私は庭を歩く。

 特別な予定はない。
 誰かと会う約束もない。

 ただ、
 歩きたいから歩く。

 途中で、
 使用人の一人が声をかけてきた。

「お嬢様、
 この花……
 どう思われますか?」

 咲いたばかりの花を指さす。

「綺麗ね」

 それ以上は言わない。

 評価もしない。
 改善案も出さない。

 それでも、
 彼女は満足そうに頷いた。

 誰かの人生に、
 口を出さなくてもいい。

 正解を示さなくてもいい。

 それで関係が壊れない――
 その事実が、
 胸を軽くする。

 昼前、
 父が庭に姿を見せた。

「……随分と、
 穏やかな顔をしているな」

「そう?」

「以前より、
 ずっと」

 私は立ち止まり、
 父を見た。

「もう、
 何も考えなくていいから」

「それでいいのか?」

「いいの」

 私は迷わず言う。

「私は、
 役割を終えたんじゃない」

「最初から、
 持っていなかっただけ」

 父は、
 苦笑して空を仰いだ。

「……お前は、
 本当に不思議な娘だ」

「前世の反動よ」

 冗談めかして言うと、
 父は静かに笑った。

 午後。

 本を読み、
 紅茶を飲み、
 うたた寝をする。

 時間は、
 驚くほどゆっくり流れる。

 焦りも、
 罪悪感も、
 どこにもない。

(……これでいい)

 誰かの期待に応えなくても、
 誰かを見返さなくても、
 誰かを救わなくても。

 生きていていい。

 夕暮れ。

 空が、
 オレンジから紫へと変わっていく。

 私はテラスに腰掛け、
 その移ろいを眺めていた。

 思えば、
 婚約破棄から始まったこの人生。

 復讐もしなかった。
 断罪もしなかった。
 英雄にもならなかった。

 ただ、
 働かなかった。

 それだけで――
 私は、
 壊れずに済んだ。

 夜。

 日記を開く。

『今日も、
 何もしなかった』

 少し考え、
 最後の一文を書く。

『それが、
 私の選んだ人生』

 ペンを置き、
 深く息を吸う。

 前世で欲しかったものは、
 出世でも、
 称賛でもなかった。

 ――休んでいい、
 という許可。

 今世では、
 それを
 誰にも求めなくていい。

 私は、
 私に許した。

 窓の外では、
 静かな夜が広がっている。

 何も起きない。
 誰も困らない。

 それが、
 こんなにも
 満ち足りているなんて。

 ――働かない令嬢は、
 最後まで働かず、
 最後まで戦わず、
 最後まで
 自分の人生を
 誰にも渡さなかった。

 そして今日もまた、
 穏やかな夜の中で、
 何も背負わず、
 静かに眠りにつく。

 それが、
 彼女の物語の結末だ。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~

由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。 両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。 そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。 王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。 ――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

あの日々に戻りたくない!自称聖女の義妹に夫と娘を奪われた妃は、死に戻り聖女の力で復讐を果たす

青の雀
恋愛
公爵令嬢スカーレット・ロッテンマイヤーには、前世の記憶がある。 幼いときに政略で結ばれたジェミニ王国の第1王子ロベルトと20歳の時に結婚した。 スカーレットには、7歳年下の義妹リリアーヌがいるが、なぜかリリアーヌは、ロッテンマイヤー家に来た時から聖女様を名乗っている。 ロッテンマイヤーは、代々異能を輩出している家柄で、元は王族 物語は、前世、夫に殺されたところから始まる。

幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係

紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。 顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。 ※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)

妻よりも幼馴染が大事? なら、家と慰謝料はいただきます

佐藤 美奈
恋愛
公爵令嬢セリーヌは、隣国の王子ブラッドと政略結婚を果たし、幼い娘クロエを授かる。結婚後は夫の王領の離宮で暮らし、義王家とも程よい関係を保ち、領民に親しまれながら穏やかな日々を送っていた。 しかし数ヶ月前、ブラッドの幼馴染である伯爵令嬢エミリーが離縁され、娘アリスを連れて実家に戻ってきた。元は豊かな家柄だが、母子は生活に困っていた。 ブラッドは「昔から家族同然だ」として、エミリー母子を城に招き、衣装や馬車を手配し、催しにも同席させ、クロエとアリスを遊ばせるように勧めた。 セリーヌは王太子妃として堪えようとしたが、だんだんと不満が高まる。

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろうにも掲載中です)

【完結】恋は、終わったのです

楽歩
恋愛
幼い頃に決められた婚約者、セオドアと共に歩む未来。それは決定事項だった。しかし、いつしか冷たい現実が訪れ、彼の隣には別の令嬢の笑顔が輝くようになる。 今のような関係になったのは、いつからだったのだろう。 『分からないだろうな、お前のようなでかくて、エマのように可愛げのない女には』 身長を追い越してしまった時からだろうか。  それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。 あるいは――あの子に出会った時からだろうか。 ――それでも、リディアは平然を装い続ける。胸に秘めた思いを隠しながら。

【完結】王妃を廃した、その後は……

かずきりり
恋愛
私にはもう何もない。何もかもなくなってしまった。 地位や名誉……権力でさえ。 否、最初からそんなものを欲していたわけではないのに……。 望んだものは、ただ一つ。 ――あの人からの愛。 ただ、それだけだったというのに……。 「ラウラ! お前を廃妃とする!」 国王陛下であるホセに、いきなり告げられた言葉。 隣には妹のパウラ。 お腹には子どもが居ると言う。 何一つ持たず王城から追い出された私は…… 静かな海へと身を沈める。 唯一愛したパウラを王妃の座に座らせたホセは…… そしてパウラは…… 最期に笑うのは……? それとも……救いは誰の手にもないのか *************************** こちらの作品はカクヨムにも掲載しています。

処理中です...