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第1話 売られた婚約者
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第1話 売られた婚約者
その日、フェリス・リンクスは、嫌な予感を抱いて男爵邸を訪れていた。
応接室に通されるまでの廊下は、いつもと何一つ変わらない。飾られた絵画、磨き上げられた床、静かに頭を下げる使用人たち。だが、胸の奥に沈む重たい感覚だけが、はっきりと異物として存在していた。
「フェリス。座ってくれ」
婚約者であるバロン男爵は、いつになく事務的な口調だった。柔らかな笑みも、気取った気遣いもない。その態度だけで、今日の話が“祝い事”でないことは明白だった。
「単刀直入に言おう」
男爵は、わずかに視線を逸らしながら言った。
「君との婚約を、解消する」
言葉は静かだった。だが、鋭利な刃のように、確実にフェリスの心を切り裂いた。
一瞬、呼吸の仕方を忘れる。それでも彼女は、取り乱さなかった。驚きはあった。だが、こうなる可能性を、心のどこかで予期していた自分もいた。
「……理由を、お聞かせ願えますか」
丁寧な口調を崩さずにそう尋ねると、男爵は小さくため息をついた。
「正直に言おう。君は悪くない。ただ……華がない」
あまりに率直で、あまりに残酷な言葉だった。
「社交界では見映えが重要だ。君は堅実すぎる。帳簿や書類仕事は確かに優秀だが、王都ではそれだけでは足りない」
フェリスは黙って聞いていた。婚約者として、男爵家の財務整理や契約の確認、取引先との文書のやり取りを、誰にも知られぬところで支えてきた。それを評価されるとは、最初から思っていなかった。
「もっと相応しい女性が現れた。それだけの話だ」
それだけ、で済まされる年月ではなかったが、フェリスは反論しなかった。
「……承知しました」
そう答えた瞬間、男爵の肩から、目に見えて力が抜けた。
「話が早くて助かるよ。感情的になられると困るからね」
その一言で、フェリスの中の何かが静かに凍りついた。だが、男爵はそれに気づかない。
「それで、もう一つ――いや、こちらが本題なのだが」
男爵は机の上に指を組み、声を落とした。
「実は、少々立て込んでいてね。資金繰りがうまくいっていない」
嫌な予感が、確信に変わる。
「借金が、ある。君も知っているだろう?」
知らないはずがない。帳簿を整理していたのは、他ならぬフェリスだった。
「その整理の一環として……君には、引き取られてもらうことになった」
「……引き取られる、とは?」
問い返した声は、思いのほか冷静だった。男爵は、さも当然のように答える。
「借金のかただよ。君は教養があるし、読み書きもできる。雇用先としては悪くない条件だ」
その瞬間、ようやく理解した。
――売られるのだ。
婚約者としてではなく、人としてでもなく、借金の埋め合わせとして。
「安心してほしい。奴隷というわけじゃない。あくまで“長期雇用”だ。形式上は問題ない」
形式上。
その言葉が、現実の残酷さを際立たせた。
フェリスは、ゆっくりと息を吐いた。怒りも、悲しみも、胸の奥で絡み合っている。それでも涙は出なかった。泣くほど、期待していなかったのだと、今さらながら気づいてしまったから。
「……わかりました」
その返事に、男爵は安堵したように微笑んだ。
「理解があって助かる。リンクス子爵家には、こちらから事情を説明しておく」
その“事情”が、どのように歪められるのか。フェリスは、この時まだ知らない。
ただ一つ確かなのは、ここで声を荒げても、状況は何一つ変わらないということだった。
応接室を出るとき、男爵は最後にこう付け加えた。
「君も、これで楽になるだろう。重たい役目から解放されるんだ」
フェリスは、振り返らなかった。
楽になる?
――いいえ、と心の中で静かに否定する。
自分は今、婚約を失ったのではない。
人として扱われる立場そのものを、切り捨てられたのだ。
それでも、背筋は伸ばしたまま、屋敷を後にした。
この先に何が待っているのかは分からない。
だが、たった一つだけ、胸に刻んだことがある。
自分の価値を決める権利は、本来、誰のものでもない。
たとえそれを踏みにじられたとしても――
いつか、必ず取り戻す。
フェリス・リンクスは、まだ知らない。
この日が、絶望の始まりであると同時に、
帝国そのものを揺るがす運命の分岐点であることを。
その日、フェリス・リンクスは、嫌な予感を抱いて男爵邸を訪れていた。
応接室に通されるまでの廊下は、いつもと何一つ変わらない。飾られた絵画、磨き上げられた床、静かに頭を下げる使用人たち。だが、胸の奥に沈む重たい感覚だけが、はっきりと異物として存在していた。
「フェリス。座ってくれ」
婚約者であるバロン男爵は、いつになく事務的な口調だった。柔らかな笑みも、気取った気遣いもない。その態度だけで、今日の話が“祝い事”でないことは明白だった。
「単刀直入に言おう」
男爵は、わずかに視線を逸らしながら言った。
「君との婚約を、解消する」
言葉は静かだった。だが、鋭利な刃のように、確実にフェリスの心を切り裂いた。
一瞬、呼吸の仕方を忘れる。それでも彼女は、取り乱さなかった。驚きはあった。だが、こうなる可能性を、心のどこかで予期していた自分もいた。
「……理由を、お聞かせ願えますか」
丁寧な口調を崩さずにそう尋ねると、男爵は小さくため息をついた。
「正直に言おう。君は悪くない。ただ……華がない」
あまりに率直で、あまりに残酷な言葉だった。
「社交界では見映えが重要だ。君は堅実すぎる。帳簿や書類仕事は確かに優秀だが、王都ではそれだけでは足りない」
フェリスは黙って聞いていた。婚約者として、男爵家の財務整理や契約の確認、取引先との文書のやり取りを、誰にも知られぬところで支えてきた。それを評価されるとは、最初から思っていなかった。
「もっと相応しい女性が現れた。それだけの話だ」
それだけ、で済まされる年月ではなかったが、フェリスは反論しなかった。
「……承知しました」
そう答えた瞬間、男爵の肩から、目に見えて力が抜けた。
「話が早くて助かるよ。感情的になられると困るからね」
その一言で、フェリスの中の何かが静かに凍りついた。だが、男爵はそれに気づかない。
「それで、もう一つ――いや、こちらが本題なのだが」
男爵は机の上に指を組み、声を落とした。
「実は、少々立て込んでいてね。資金繰りがうまくいっていない」
嫌な予感が、確信に変わる。
「借金が、ある。君も知っているだろう?」
知らないはずがない。帳簿を整理していたのは、他ならぬフェリスだった。
「その整理の一環として……君には、引き取られてもらうことになった」
「……引き取られる、とは?」
問い返した声は、思いのほか冷静だった。男爵は、さも当然のように答える。
「借金のかただよ。君は教養があるし、読み書きもできる。雇用先としては悪くない条件だ」
その瞬間、ようやく理解した。
――売られるのだ。
婚約者としてではなく、人としてでもなく、借金の埋め合わせとして。
「安心してほしい。奴隷というわけじゃない。あくまで“長期雇用”だ。形式上は問題ない」
形式上。
その言葉が、現実の残酷さを際立たせた。
フェリスは、ゆっくりと息を吐いた。怒りも、悲しみも、胸の奥で絡み合っている。それでも涙は出なかった。泣くほど、期待していなかったのだと、今さらながら気づいてしまったから。
「……わかりました」
その返事に、男爵は安堵したように微笑んだ。
「理解があって助かる。リンクス子爵家には、こちらから事情を説明しておく」
その“事情”が、どのように歪められるのか。フェリスは、この時まだ知らない。
ただ一つ確かなのは、ここで声を荒げても、状況は何一つ変わらないということだった。
応接室を出るとき、男爵は最後にこう付け加えた。
「君も、これで楽になるだろう。重たい役目から解放されるんだ」
フェリスは、振り返らなかった。
楽になる?
――いいえ、と心の中で静かに否定する。
自分は今、婚約を失ったのではない。
人として扱われる立場そのものを、切り捨てられたのだ。
それでも、背筋は伸ばしたまま、屋敷を後にした。
この先に何が待っているのかは分からない。
だが、たった一つだけ、胸に刻んだことがある。
自分の価値を決める権利は、本来、誰のものでもない。
たとえそれを踏みにじられたとしても――
いつか、必ず取り戻す。
フェリス・リンクスは、まだ知らない。
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