『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第2話 不義の汚名

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第2話 不義の汚名

 フェリス・リンクスが男爵邸を去った、その日の夕刻。

 バロン男爵は、執務室で一通の書簡を書き上げていた。上質な羊皮紙に、流れるような筆致で綴られた文面は、ひと目には誠実そのものに見える。

 宛先は――リンクス子爵。

 フェリスの父であり、由緒あるが実直一辺倒な貴族だった。

「さて……これで、面倒はすべて片付く」

 バロンは、書き終えた書簡を軽く指で叩き、満足そうに口角を上げた。

 そこに書かれているのは、真実ではない。
 だが、真実よりも“もっともらしい嘘”だった。


---

 書簡がリンクス子爵のもとへ届いたのは、翌日の朝だった。

 子爵は、執務机に腰掛けたまま、封を切る。そこには、丁寧で沈痛な言葉が並んでいた。

> 「このたびは、誠に申し上げにくいのですが……
フェリス嬢は、私の目を盗み、不義を働きました。
しかも、相手の男と共に姿をくらまし、駆け落ち同然の形で行方をくらましております」



 子爵の指が、ぴたりと止まる。

> 「父親であるあなた様には、真実をお伝えすべきと考え、
こうしてご報告申し上げました。
私としても、婚約者としての責任を果たせなかったこと、痛恨の極みでございます」



 そこまで読んだところで、リンクス子爵は、書簡を強く握りしめた。

「……フェリスが、不義を?」

 信じがたい思いが胸をよぎる。だが同時に、思い当たる節がいくつも浮かび上がった。

 フェリスは、感情を表に出さない娘だった。
 何を考えているのか、分からないと感じたことも、一度や二度ではない。

「……あの子は、昔から我慢強すぎた」

 その“理解”が、皮肉にも疑念へと姿を変える。

 さらに書簡は、畳みかけるように続いていた。

> 「すでに所在を追いましたが、痕跡は完全に絶たれております。
もし戻る意思があるなら、連絡の一つもあるはずですが……」



 その一文が、決定打となった。

 リンクス子爵は、深く椅子に背を預け、目を閉じる。

「……家名に、泥を塗ったというわけか」

 怒りが、じわじわと込み上げてくる。
 娘を案じる気持ちよりも、貴族としての体面が、先に立ってしまった。


---

 その日のうちに、リンクス子爵は決断を下した。

 屋敷の使用人たちを集め、短く告げる。

「フェリス・リンクスは、家名を汚す行為に及んだ。
 本日をもって、リンクス家から追放とする」

 ざわめきが広がる。

「捜索は……なさらないのですか?」

 恐る恐る問いかけた老執事に、子爵は冷たく答えた。

「不要だ。自ら家を捨てた者を、探す理由はない」

 その言葉は、取り消されることなく、屋敷中に行き渡った。

 フェリスの部屋は封じられ、
 名は家系図から外され、
 彼女の存在は、なかったものとして扱われることになる。


---

 一方その頃。

 フェリスは、馬車に揺られていた。

 窓の外に流れる風景を、ぼんやりと眺めながら、胸の奥に広がる違和感を噛みしめている。

 ――あまりにも、静かすぎる。

 父からの使者も、問いただしも、何一つ来ない。

「……もう、伝わったのかしら」

 婚約が破棄されたこと。
 自分が“いなくなった”こと。

 そのどちらも、説明されることなく、切り捨てられたのだろう。

 フェリスは、目を閉じた。

 悲しみは、確かにあった。
 だがそれ以上に、胸を占めていたのは、諦めに近い感情だった。

「私は……信じてもらえなかったのね」

 それは、父に対する恨みというより、
 自分自身への静かな失望だった。

 ――説明すら、求められなかった。

 その事実が、何よりも重かった。


---

 馬車は、やがて人気のない場所で止まった。

 扉が開き、無言の男が手を差し出す。

 フェリスは、それを拒まなかった。

 もう、戻る場所はない。
 家も、婚約も、名誉も。

 それでも彼女は、背筋を伸ばして地面に足を下ろす。

 たとえ不義の汚名を着せられようとも、
 自分が自分であることだけは、失っていない。

 フェリス・リンクスは、まだ知らない。

 この嘘が、
 やがて帝国全土を揺るがす罪として、
 白日の下に晒されることを。

 そしてその時、
 彼女を信じなかった者たちが、
 何を失うのかを。
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