『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第3話 追放の決定

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第3話 追放の決定

 リンクス子爵は、その夜ほとんど眠れなかった。

 執務室の机に置かれたままの書簡が、何度も視界に入る。バロン男爵から届いたあの一通は、丁寧で、誠実で、そして――あまりにも整いすぎていた。

「……不義、か」

 低く呟き、子爵は額に手を当てた。

 娘の顔が脳裏に浮かぶ。感情を表に出さず、常に一歩引いた位置に立ち、家のため、婚約者のために淡々と役目を果たしてきた娘。反抗した姿など、一度も見たことがない。

 だが、その一方で。

「……あの子は、何も言わなすぎた」

 その性質が、今は不信となって胸に刺さる。

 弁明もなく、説明もなく、連絡すらない。
 もし無実なら、父のもとへ駆け込んでくるはずではないのか。

「……恥を知って、顔向けできぬということか」

 そう思えば、すべてが辻褄の合う話に思えてしまう。

 人は、信じたいものを信じる。
 そしてリンクス子爵は、家名を守るための理由を、無意識に探していた。


---

 翌朝。

 子爵は重臣と家宰を集め、短く告げた。

「フェリス・リンクスは、不義を働き、家名を汚した。
 本日をもって、リンクス家から追放とする」

 部屋に、重苦しい沈黙が落ちる。

「……本当に、よろしいのですか」

 老家宰が、恐る恐る口を開いた。

「捜索を命じれば、真偽は――」

「不要だ」

 子爵の声は、冷たく、迷いがなかった。

「事実であろうとなかろうと、貴族の娘が不義の疑いをかけられた時点で終わりだ。戻せば、家は笑い者になる」

 それは、父としての言葉ではなかった。
 貴族としての判断だった。

「娘を信じぬのですか……?」

 老家宰の問いに、子爵は一瞬だけ言葉に詰まる。

 信じたい気持ちは、確かにあった。
 だがそれ以上に、周囲の目と、家名の重さが、判断を縛っていた。

「……信じるからこそ、探さぬ」

 自分でも苦しい理屈だと分かっていながら、子爵はそう言った。

「戻るつもりがあるなら、あの子の方から連絡があるはずだ」

 その言葉で、すべてが決まった。


---

 その日のうちに、正式な通達が作られる。

 フェリス・リンクスは、リンクス家を出奔したものと見なし、今後一切の関与を断つ。

 屋敷の中では、静かに、しかし確実に彼女の痕跡が消されていった。

 私室は封鎖され、
 使用人の名簿から名が削られ、
 家系図の端から、そっと線が引かれる。

「……お嬢様」

 フェリスに仕えていた若い侍女は、閉ざされた扉の前で、小さく頭を下げた。

 誰も声を上げない。
 上げられない。

 それが“決定”だった。


---

 一方その頃。

 フェリスは、事情を知らぬまま、さらに遠くへ運ばれていた。

 馬車は街道を外れ、人目の少ない道へと進む。窓の外に見える景色は、次第に荒れ、舗装も粗くなっていく。

「……随分と、遠いのですね」

 小さくそう言ってみたが、御者は答えない。

 胸の奥で、不安が静かに膨らむ。

 父からの使者は来ない。
 呼び戻しも、確認もない。

「……そう」

 フェリスは、ゆっくりと目を伏せた。

「私は、もう――捨てられたのね」

 怒りよりも、悲しみよりも先に来たのは、冷たい理解だった。

 婚約者に切り捨てられ、
 父に信じられず、
 家から追われた。

 それでも、彼女は泣かなかった。

「……なら、前を向くしかないわ」

 どこへ向かうのかは分からない。
 何をさせられるのかも知らない。

 それでも、フェリス・リンクスは背筋を伸ばす。

 尊厳だけは、誰にも売らないと決めて。

 この追放が、
 やがて帝国そのものを揺るがす“誤り”だったと、
 父が気づく日が来ることも知らずに。
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