『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第4話 売買の現場へ

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第4話 売買の現場へ

 馬車は、いつの間にか街道を大きく外れていた。

 窓の外に見える景色は、次第に人の手が入らぬ荒れ地へと変わり、舗装された道はとっくに途切れている。揺れは激しく、馬の蹄が石を蹴る音だけが、やけに大きく響いていた。

「……ここは、どこへ向かっているのですか?」

 フェリス・リンクスがそう問いかけても、御者は振り向きもしない。厚手の外套に顔を半分隠し、まるで聞こえなかったかのように手綱を握り続けている。

 沈黙が、答えだった。

 胸の奥に、冷たいものが落ちていく感覚があった。

 ――やはり、ただの雇用ではない。

 それでも、フェリスは取り乱さなかった。怒鳴ることも、暴れることも、意味がないと分かっていたからだ。相手は、最初からこちらの意思を尊重する気などない。

 馬車は、やがて森の奥にある古い建物の前で止まった。

 石造りの倉庫。
 表向きは、使われなくなった交易拠点の残骸にしか見えない。

「降りろ」

 短く命じられ、フェリスは外に出た。

 空気が、妙に重い。
 人気はないはずなのに、視線だけが、あちこちから突き刺さる。

 扉が開かれると、内側は思いのほか広かった。松明の灯りが揺れ、低い声で話す人影がいくつも見える。

 ――理解してしまった。

 ここは、人を“選ぶ”場所だ。

 フェリスは、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。恐怖がなかったわけではない。だが、それ以上に、ここで怯えを見せることが、何より危険だと本能が告げていた。

「ほう……これは、なかなかの上玉だな」

 値踏みするような視線が、遠慮なく注がれる。

「顔立ちも悪くないし、姿勢がいい。貴族の娘か?」

「読み書きはできるそうだ。計算もな」

 囁き声が、品定めの言葉へと変わっていく。

 フェリスは、唇を噛みしめた。

 ――商品。

 そう理解した瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。だが、同時に、奇妙なほどの冷静さも生まれていた。

 泣けば、値は下がる。
 取り乱せば、扱いは悪くなる。

 ならば、できることは一つだけ。

 フェリスは、顔を上げ、まっすぐ前を見た。

 その態度が、周囲の男たちの興味を引いたらしい。

「……度胸があるな」

「怖くないのか?」

「怖くないわけがありません」

 フェリスは、静かに答えた。

「ですが、ここで感情を見せる意味がないことくらい、分かります」

 ざわめきが起こる。

「はは……なるほど。頭も回る」

「惜しいな。もっと高く売れたかもしれん」

 その言葉に、フェリスは一瞬だけ目を伏せた。

 ――父は、ここまで想像しただろうか。
 ――婚約者は、ここまで知っていただろうか。

 どちらも、答えは同じだ。

 知っていても、止めなかった。

 フェリスの胸に、怒りが灯る。だが、それは炎にはならず、静かな決意へと形を変えていった。

 生きて、ここを出る。
 たとえ、どんな形であっても。

 その時だった。

 倉庫の奥が、わずかにざわついた。

 今までとは違う空気。
 低い声が、短く何かを告げる。

「……来たぞ」

 誰かがそう呟いた瞬間、空間全体が一段、張り詰める。

 フェリスは、顔を上げた。

 奥から現れた人物は、豪奢な衣装をまとっているわけでもなく、威圧的な態度を取るでもない。だが、その場にいる全員が、自然と道を開けていた。

 理由は、直感で分かった。

 ――この男は、ここで一番“上”だ。

 鋭く、冷たい眼差しが、フェリスを捉える。

 だがそこには、欲望も、下卑た興味もなかった。
 ただ、値を見る目だけがあった。

 その瞬間、フェリスは知らず息を呑む。

 この出会いが、自分の運命を大きく変えることを――
 まだ、知らぬままに。

 売買の場で、
 フェリス・リンクスの人生は、静かに、しかし確実に次の段階へと踏み出そうとしていた。
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