『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第5話 値札を付けられる前に

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第5話 値札を付けられる前に

 倉庫の空気は、重く、湿っていた。

 松明の火が揺れるたび、壁に映る影が歪み、まるで人の形をした獣が蠢いているかのように見える。フェリス・リンクスは、その中央に立たされたまま、静かに周囲を見渡していた。

 男たちの視線は、露骨だった。

 顔立ち、体格、立ち居振る舞い。
 それらすべてが、値を決める材料として測られている。

「貴族の娘にしては、随分と落ち着いているな」

「泣き叫ばないだけでも上等だ」

 ひそひそと交わされる言葉に、フェリスは表情一つ変えなかった。胸の奥では、恐怖が確かに脈打っている。それでも、ここで怯えを見せることが、どんな結果を招くのか――理解できる程度には、現実を見据えていた。

 ――泣けば、弱いと判断される。
 ――取り乱せば、安く叩かれる。

 ならば。

 フェリスは、背筋を伸ばし、顎を引いた。
 自分に残された最後の武器は、尊厳だけだ。

「では、始めようか」

 低い声が響く。

 倉庫の中央に据えられた机の前に、数人の男が集まった。帳簿を開き、羽根ペンを手に取る姿は、商取引そのものだ。扱われているものが人間であることを除けば。

「名前は?」

 一瞬、答えるべきか迷い、フェリスは正直に口を開いた。

「……フェリス・リンクスです」

 その名を聞いて、男の一人が眉をひそめる。

「リンクス? 聞いたことがあるな。確か、地方子爵だったか」

「だが、今は追放された身だろう?」

 誰かが、愉快そうに言った。

「家にも、婚約者にも捨てられた女だ。価値は……」

 言葉の先を、フェリスは聞かなかった。
 聞く必要がなかった。

 価値を決めるのは、彼らだ。
 だが、その価値に、自分の存在すべてを委ねるつもりはない。

 男たちは、勝手に話を進めていく。

「読み書きは?」

「問題ない。数字にも強いそうだ」

「身体は?」

「健康そのものだ。年齢も若い」

 まるで、家畜の競りだ。

 フェリスは、指先がかすかに震えるのを感じた。それを悟られぬよう、そっと拳を握る。

 ――ここで終わるのだろうか。

 この場所で、誰かに買われ、
 名前を失い、
 役割を与えられ、
 二度と“フェリス・リンクス”として生きられなくなる。

 覚悟はしてきたつもりだった。
 だが、現実は、想像以上に冷酷だった。

「さて……」

 帳簿を覗き込んでいた男が、顔を上げる。

「値を付ける前に、一つ聞いておこう」

 その視線が、フェリスを射抜く。

「――恨みはあるか?」

 意外な問いだった。

 フェリスは、一瞬だけ考え、正直に答えた。

「あります」

 倉庫が、静まり返る。

「ですが」

 彼女は続けた。

「それを、ここで口にしても、何も変わらないことも分かっています」

 男の一人が、くつくつと笑った。

「面白い女だ」

「この状況で、そんなことが言えるとはな」

 だが、その笑いには、嘲りだけでなく、わずかな評価が混じっていた。

「……惜しいな」

 別の男が、ぽつりと呟く。

「もう少し早ければ、もっと良い条件で売れただろうに」

 その言葉に、フェリスは目を伏せた。

 ――“売れただろう”。

 すでに、未来形ですらない。

 この瞬間、彼女は理解した。

 自分は今、値札を付けられる直前にいる。

 ここで名前を呼ばれ、
 金額が告げられ、
 誰かの所有物になる。

 それが、当たり前の流れなのだと。

 フェリスは、そっと息を吸った。

 もし、これが最後の自由な呼吸なら――
 せめて、胸を張って終わろう。

 その時だった。

 倉庫の奥で、控えめだがはっきりとした足音が響いた。

 先ほど現れた、あの男だ。

 空気が、変わる。

 誰もが無意識に背筋を正し、言葉を飲み込む。彼は、帳簿も、値札も、競りの準備も見ずに、まっすぐフェリスへと視線を向けた。

 その眼差しには、欲も、好奇もない。

 あるのは――
 観察と判断。

 まるで、宝石の価値を見抜く職人のように。

 フェリスは、なぜか目を逸らせなかった。

 この男が、誰なのか。
 なぜ、ここにいるのか。

 何一つ分からない。
 それでも、直感だけは告げていた。

 ――この人は、値札を見るために来たのではない。

 次の瞬間、男は静かに口を開く。

「……その競り、少し待て」

 短い一言。

 だが、それだけで、場の空気が凍りついた。

 フェリス・リンクスは、その意味をまだ知らない。

 だが確かに感じていた。

 自分の人生が、“売られる”運命から、わずかに逸れたことを。

 値札が付けられる、その直前で。
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