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第6話 値を付ける男
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第6話 値を付ける男
倉庫の奥から放たれた一言は、静かだった。だが、その場にいた誰もが、反射的に動きを止めた。
「……その競り、少し待て」
帳簿を覗き込んでいた商人の手が止まり、羽根ペンの先からインクが一滴、紙に落ちる。ざわめきは起こらない。起こせなかった。空気そのものが、見えない重みで押さえつけられていた。
男は、ゆっくりと前に出た。
派手な衣装は身に着けていない。宝石も、威圧的な装飾もない。それでも、彼が歩くたびに、道が自然と開いていく。そこに意志があるのかどうかさえ分からないほど、周囲は従っていた。
フェリス・リンクスは、その男から目を離せずにいた。
冷たい灰色の瞳。感情の読めない表情。だが、値踏みの視線ではない。身体や顔立ちをなぞるような視線でもなかった。彼の目は、フェリスの姿勢、呼吸、そして言葉の選び方――在り方を見ていた。
「……何者だ?」
商人の一人が、恐る恐る声を出す。
男は答えない。代わりに、フェリスへと視線を向けたまま、淡々と告げた。
「名前を」
「……フェリス・リンクスです」
短い沈黙。
男は、その名を頭の中で確かめるように、わずかに目を細めた。
「リンクス子爵の娘か」
その一言で、周囲の空気がざわりと揺れた。知っている。だが、口にする者はいなかった。男は続ける。
「読み書きと計算に通じ、文書整理と交渉補助に長ける。感情を表に出さず、状況判断が早い」
フェリスは、息を呑んだ。
――なぜ、そこまで知っている?
商人たちの顔色が変わる。帳簿をめくる音が、やけに大きく響いた。
「この場で競りにかけるには、条件が不釣り合いだ」
男はそう言い、初めて商人たちに視線を向けた。
「価格を聞こう」
商人は、慌てて数字を告げる。安い。フェリス自身がそう感じるほどに。
男は、眉一つ動かさなかった。
「……安すぎる」
低い声が、はっきりと断じた。
「彼女の履歴と能力に対して、その額は侮辱だ」
商人たちは言葉を失う。誰かが言い訳をしようと口を開いたが、男はそれを遮った。
「競りは不要だ。私が引き取る」
短い宣言だった。
「――倍額を出す」
倉庫が、凍りついた。
倍額。即決。交渉なし。
それが意味するところを、商人たちは理解していた。金額だけではない。この男に逆らわない方がいいという直感が、全員に同時に働いたのだ。
「……承知、いたしました」
帳簿が閉じられ、取引は成立する。
フェリスは、まだ現実を呑み込めずにいた。売られる運命から外れた――それは分かる。だが、代わりに何が待っているのかは、分からない。
男は、フェリスの前に立った。
近くで見ると、その存在感はさらに際立つ。威圧ではない。揺るぎない確信が、静かにそこにある。
「金がかかった」
彼は、事実だけを述べるように言った。
「だから、身体で返してもらう」
フェリスの心臓が、一瞬強く脈打つ。
だが、続く言葉は、彼女の想像とは違っていた。
「――労働として、だ」
男は、わずかに視線を外し、言い添える。
「君を消費する気はない。使う」
フェリスは、ゆっくりと頷いた。
「……承知しました」
命が繋がった。その事実だけで、十分だった。
男は踵を返す。
「来い。ここに長居は無用だ」
倉庫を出ると、夜気が肺に冷たく流れ込んだ。馬車が用意されている。商人たちは深く頭を下げ、誰一人、顔を上げなかった。
馬車が動き出してから、しばらくして、フェリスは小さく問いかけた。
「……お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
男は、少しだけ間を置いた。
「アーシュだ」
それだけ。
だが、その名が持つ重みを、フェリスはまだ知らない。
この夜、フェリス・リンクスは、値札を付けられる人生を終えた。
そして――帝国の中心へと連れて行かれることになる。
それが、救いなのか。試練なのか。
答えは、これから明らかになる。
倉庫の奥から放たれた一言は、静かだった。だが、その場にいた誰もが、反射的に動きを止めた。
「……その競り、少し待て」
帳簿を覗き込んでいた商人の手が止まり、羽根ペンの先からインクが一滴、紙に落ちる。ざわめきは起こらない。起こせなかった。空気そのものが、見えない重みで押さえつけられていた。
男は、ゆっくりと前に出た。
派手な衣装は身に着けていない。宝石も、威圧的な装飾もない。それでも、彼が歩くたびに、道が自然と開いていく。そこに意志があるのかどうかさえ分からないほど、周囲は従っていた。
フェリス・リンクスは、その男から目を離せずにいた。
冷たい灰色の瞳。感情の読めない表情。だが、値踏みの視線ではない。身体や顔立ちをなぞるような視線でもなかった。彼の目は、フェリスの姿勢、呼吸、そして言葉の選び方――在り方を見ていた。
「……何者だ?」
商人の一人が、恐る恐る声を出す。
男は答えない。代わりに、フェリスへと視線を向けたまま、淡々と告げた。
「名前を」
「……フェリス・リンクスです」
短い沈黙。
男は、その名を頭の中で確かめるように、わずかに目を細めた。
「リンクス子爵の娘か」
その一言で、周囲の空気がざわりと揺れた。知っている。だが、口にする者はいなかった。男は続ける。
「読み書きと計算に通じ、文書整理と交渉補助に長ける。感情を表に出さず、状況判断が早い」
フェリスは、息を呑んだ。
――なぜ、そこまで知っている?
商人たちの顔色が変わる。帳簿をめくる音が、やけに大きく響いた。
「この場で競りにかけるには、条件が不釣り合いだ」
男はそう言い、初めて商人たちに視線を向けた。
「価格を聞こう」
商人は、慌てて数字を告げる。安い。フェリス自身がそう感じるほどに。
男は、眉一つ動かさなかった。
「……安すぎる」
低い声が、はっきりと断じた。
「彼女の履歴と能力に対して、その額は侮辱だ」
商人たちは言葉を失う。誰かが言い訳をしようと口を開いたが、男はそれを遮った。
「競りは不要だ。私が引き取る」
短い宣言だった。
「――倍額を出す」
倉庫が、凍りついた。
倍額。即決。交渉なし。
それが意味するところを、商人たちは理解していた。金額だけではない。この男に逆らわない方がいいという直感が、全員に同時に働いたのだ。
「……承知、いたしました」
帳簿が閉じられ、取引は成立する。
フェリスは、まだ現実を呑み込めずにいた。売られる運命から外れた――それは分かる。だが、代わりに何が待っているのかは、分からない。
男は、フェリスの前に立った。
近くで見ると、その存在感はさらに際立つ。威圧ではない。揺るぎない確信が、静かにそこにある。
「金がかかった」
彼は、事実だけを述べるように言った。
「だから、身体で返してもらう」
フェリスの心臓が、一瞬強く脈打つ。
だが、続く言葉は、彼女の想像とは違っていた。
「――労働として、だ」
男は、わずかに視線を外し、言い添える。
「君を消費する気はない。使う」
フェリスは、ゆっくりと頷いた。
「……承知しました」
命が繋がった。その事実だけで、十分だった。
男は踵を返す。
「来い。ここに長居は無用だ」
倉庫を出ると、夜気が肺に冷たく流れ込んだ。馬車が用意されている。商人たちは深く頭を下げ、誰一人、顔を上げなかった。
馬車が動き出してから、しばらくして、フェリスは小さく問いかけた。
「……お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
男は、少しだけ間を置いた。
「アーシュだ」
それだけ。
だが、その名が持つ重みを、フェリスはまだ知らない。
この夜、フェリス・リンクスは、値札を付けられる人生を終えた。
そして――帝国の中心へと連れて行かれることになる。
それが、救いなのか。試練なのか。
答えは、これから明らかになる。
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