『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第7話 皇帝の名

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第7話 皇帝の名

 馬車は、夜の街を音もなく進んでいた。

 車内には、最低限の灯りしかない。揺れは穏やかで、先ほどまでの荒れた道とは別世界のようだった。フェリス・リンクスは、背筋を伸ばしたまま、向かいに座る男――アーシュを盗み見ることなく、ただ前を見ていた。

 助かった。
 少なくとも、“売られる”ことはなかった。

 だが、安堵は長く続かなかった。

 金で引き取られた事実は変わらない。
 これから自分は、何を求められ、何を失うのか。

「……労働、とおっしゃいましたが」

 フェリスは、意を決して口を開いた。

「具体的には、どのような仕事を?」

 アーシュは、少しだけ視線を向けた。

「雑務だ」

 即答だった。

「書類整理、記録の写し、伝言。必要なら、付き添いもさせる」

 それだけを聞けば、確かに“使用人”の仕事だ。
 だが、その口調には、品定めの響きがなかった。

「拒否するか?」

 試すような問い。

「……いいえ」

 フェリスは首を横に振った。

「私には、選択肢がありませんので」

 その答えに、アーシュは何も言わなかった。ただ、ほんの一瞬だけ、眉がわずかに動いた気がした。

 馬車は、やがて高い城壁の前で止まった。

 門が開く。

 その光景を見た瞬間、フェリスは思わず息を呑んだ。

 夜にもかかわらず、整然と灯された松明。
 規律正しく並ぶ兵士たち。
 そして、無言のまま頭を垂れる人々。

 ――王城?

 いや、それ以上だ。

 馬車は検問を受けることもなく、当然のように通される。誰も、行き先を確認しない。誰も、男に問いかけない。

 フェリスの胸に、ようやく疑問が確信へと変わる。

「……ここは」

 問いかけようとした、その時だった。

「陛下」

 馬車の外から、低い声が響く。

 敬称。

 はっきりとした、迷いのない呼びかけ。

 アーシュは、短く応じた。

「用件は?」

「至急の報告が一件。ただし、今は――」

「後でいい」

 それだけで会話は終わった。

 フェリスは、言葉を失った。

 陛下。
 今、確かにそう呼ばれた。

 馬車が再び動き出す。
 石畳の感触が、より重く、確かなものに変わる。

 やがて、広い中庭を抜け、建物の前で止まった。扉が開かれ、柔らかな灯りが溢れ出す。

「降りろ」

 短い命令に従い、フェリスは馬車を降りた。

 その瞬間、周囲にいた者たちが、一斉に膝をついた。

 誰も声を出さない。
 ただ、深く、深く、頭を垂れる。

 フェリスは、凍りついた。

 ――理解してしまった。

 理解したくなかった事実を。

「……あなたは」

 震えそうになる声を、必死で抑える。

 アーシュは、立ち止まり、静かに振り返った。

「今さらか」

 淡々と、事実だけを告げる声。

「アーシュ・レーシャー。帝国皇帝だ」

 世界が、一瞬でひっくり返った。

 フェリスは、思わず膝が崩れそうになるのを、必死で堪えた。礼を取るべきだ。頭を下げるべきだ。だが、身体が言うことをきかない。

「……ご無礼を、お許しください」

 絞り出すように言うと、フェリスは深く頭を下げた。

 皇帝。

 自分を買い戻したのは、
 この国で、最も権力を持つ男だった。

「構わん」

 アーシュの声は、変わらない。

「ここでは、形式は後回しだ」

 その言葉に、余計に混乱する。

 形式を後回しにできるのは、形式を超える立場にある者だけだ。

「今夜は休め」

 皇帝は言った。

「話は、明日でいい」

「……私に、拒否権は」

「ない」

 即答だった。

 だが、続く言葉は、予想外だった。

「だが、無理強いもしない」

 フェリスは、ゆっくりと顔を上げた。

 その眼差しに、威圧はない。
 支配の色もない。

 あるのは、冷静な判断と――奇妙なほどの配慮だった。

「ここは安全だ」

 アーシュは、淡々と告げる。

「少なくとも、君が想像しているような扱いはしない」

 フェリスは、胸の奥がざわつくのを感じた。

 助かったはずなのに、
 新たな不安が、形を変えて現れている。

 皇帝に引き取られた。
 それは、救いなのか。

 それとも、
 より大きな運命の渦に、足を踏み入れただけなのか。

 フェリス・リンクスは、この夜、帝国の中心に立っていた。

 値札を付けられる人生は終わった。
 だが――

 皇帝の手に渡った人生が、ここから始まる。
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