『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第8話 返済という名の仕事

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第8話 返済という名の仕事

 与えられた部屋は、静かだった。

 豪奢ではない。だが、清潔で、無駄がなく、必要なものはすべて揃っている。窓からは中庭が見え、夜明け前の薄い光が、白いカーテン越しに差し込んでいた。

 フェリス・リンクスは、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 ――皇帝の城。
 ――皇帝の名。
 ――皇帝に買い戻されたという事実。

 どれも現実感がなく、夢の続きを歩いているような感覚が抜けない。

「……考えても、仕方がないわね」

 小さく呟き、フェリスは深く息を吐いた。混乱していようと、立場は明確だ。自分はここに“雇われた”存在であり、返済のために働く。それ以上でも、それ以下でもない。

 やがて、控えめなノックの音が響いた。

「フェリス様。お目覚めでしょうか」

 扉の向こうから聞こえたのは、落ち着いた女性の声だった。

「はい。どうぞ」

 扉が開き、年配の侍女が一礼して入ってくる。その所作は洗練されており、長年宮廷に仕えてきた者だと一目で分かった。

「本日より、あなた様の案内を務めます。必要なことがあれば、何なりと」

 その言葉に、フェリスはわずかに目を見開いた。

「……案内、ですか? 私は、ただの――」

「皇帝陛下直々のお引き取りです」

 侍女は、淡々と告げる。

「扱いを誤る者はおりません」

 それは、配慮というより、事実の説明だった。

 フェリスは、それ以上言葉を重ねなかった。ここで自分の立場を卑下しても、意味はない。


---

 執務棟へ向かう廊下は、朝の静けさに包まれていた。行き交う官吏や近衛たちは、フェリスの姿を見ると一瞬だけ視線を向け、すぐに礼を取る。

 ――誰も、軽んじない。

 その事実が、かえって落ち着かない。

 重厚な扉の前で、侍女が立ち止まった。

「陛下がお待ちです」

 扉が開くと、書類の匂いが流れ出す。広い執務室の中央で、アーシュ・レーシャー皇帝は机に向かっていた。昨夜と同じ、無駄のない佇まい。だが、ここでは明らかに“主”だった。

「来たか」

 視線だけを向け、短く告げる。

「はい」

 フェリスは、深く礼を取った。

「……何から始めればよろしいでしょうか」

 アーシュは、机の脇に積まれた書類を顎で示した。

「まずは、それだ」

 量は多い。だが、内容は複雑ではない。古い記録の整理、重複文書の照合、数字の確認。フェリスにとっては、慣れた仕事だった。

 無言で席に着き、ペンを取る。

 紙に触れた瞬間、頭が切り替わった。感情は後回し。仕事が、すべてを整えてくれる。

 数刻後。

「……終わりました」

 フェリスは、整理された束を差し出した。

 アーシュはそれを受け取り、目を走らせる。わずかに、だが確かに、眉が動いた。

「早いな」

「急ぎでしたので」

「正確さも、問題ない」

 淡々とした評価だったが、その一言で、胸の奥がわずかに軽くなる。

「返済としては、十分すぎるほどだ」

 その言葉に、フェリスは思わず顔を上げた。

「……ですが、まだ何も――」

「焦る必要はない」

 アーシュは、書類を置いた。

「返済は、労働でいいと言った。期限も、量も、こちらが決める」

 それは、命令だった。だが、不思議と圧はない。

「君は、今日から私の執務補佐だ」

 フェリスは、一瞬だけ考え、静かに頷いた。

「承知しました」

 その答えを聞き、アーシュは再び書類へ視線を戻す。

「無理はするな」

 ぽつりと、そう付け加えた。

 フェリスは、その言葉の意味を測りかねたまま、席を立った。


---

 廊下に出ると、先ほどの侍女が小声で囁く。

「……驚かれませんでしたか」

「何がでしょう」

「陛下は、他人に仕事を任せる方ではありません」

 フェリスは、足を止めた。

「それは……」

「まして、身元のはっきりしない者に」

 その言葉に、ようやく理解する。

 ――これは、単なる“返済の仕事”ではない。

 フェリスは、胸の奥で小さく息を吸った。

 自分は、まだ試されている。
 だが同時に、選ばれてもいる。

 メイド扱いのはずだった。
 返済のための労働のはずだった。

 それなのに――

「……妙ですね」

 フェリスは、誰にも聞こえない声で呟いた。

 ここには、商品として扱われる感覚がない。
 あるのは、仕事と、評価と、静かな信頼だけ。

 皇帝アーシュ・レーシャーは、何を見ているのか。
 自分に、何を求めているのか。

 答えはまだ出ない。

 だが、フェリス・リンクスは、この日から理解し始めていた。

 返済という名の仕事が、彼女の居場所を作り始めていることを。
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