『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第9話 噂という名の違和感

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第9話 噂という名の違和感

 執務補佐としての仕事が始まって、三日が過ぎた。

 フェリス・リンクスは、すでに執務室の空気に慣れつつあった。書類の配置、官吏たちの動線、皇帝アーシュ・レーシャーの執務の癖。必要以上に口を出さず、だが判断が必要な場面では即断する。その姿勢は、自然と周囲に受け入れられていった。

「……この修正、助かりました」

「前任者なら、三日はかかっていたでしょうな」

 官吏たちの評価は、控えめだが確実だった。

 フェリスは、ただ淡く微笑んで礼を返す。褒められることに慣れていないわけではない。だが、ここではそれが“個人への評価”として返ってくる。その事実に、まだ少しだけ戸惑いがあった。

 そんな空気の変化を、快く思わない者もいる。

 廊下を歩いていると、背後から抑えた声が聞こえた。

「……あの女、何者だ?」

「陛下の執務室に出入りしているらしい」

「下賤な出自だと聞いたが……」

 フェリスは、足を止めなかった。

 聞こえないふりをするのは、昔から得意だ。貴族社会では、噂と悪意は日常の一部だった。だが、今回は少し違う。

 ――“下賤”。

 その言葉が、妙に引っかかった。

 自分は確かに追放された身だ。だが、出自を偽った覚えはない。まして、ここへ来た経緯は、公式には伏せられているはずだ。

(……誰が、どこまで知っているの?)

 胸の奥に、小さな違和感が積もっていく。


---

 その日の午後。

 アーシュは、珍しく執務の手を止め、フェリスに視線を向けた。

「最近、城内が騒がしい」

 唐突な一言だった。

「……はい。多少の噂は、耳にしました」

「内容は?」

 試すような問い。

「身分不相応な女が、陛下に取り立てられている、と」

 フェリスは、淡々と答えた。事実をそのまま述べただけだ。だが、言葉にしてみると、胸の奥がわずかに疼く。

 アーシュは、鼻で小さく息を吐いた。

「くだらん」

 それだけで終わらせるかと思いきや、続けて言う。

「だが、放置はしない」

 フェリスは、顔を上げた。

「私のせいで、ご迷惑を――」

「違う」

 即座に遮られる。

「問題は、噂そのものではない。
 誰が、意図的に流しているかだ」

 その声音は低く、冷静で、そして鋭かった。

 フェリスは、はっとする。

 ――噂は自然発生ではない。

「君がここに来た経緯は、極秘扱いだ」

 アーシュは、机の上の書類に指を置いた。

「それを“売られていた女”とまで言い切れる者は限られる」

 背筋が、ひやりとした。

「……バロン男爵、でしょうか」

 フェリスがそう口にすると、アーシュは否定も肯定もしなかった。

「奴の名は、すでに調査線上にある」

 淡々とした口調。だが、その裏にある意味を、フェリスは理解していた。

 ――皇帝が、動いている。

「君に伝えておくべきことがある」

 アーシュは、視線をまっすぐ向けた。

「これは、私の判断だ。
 君をここに置いた責任は、すべて私が負う」

 その言葉は、命令でも慰めでもなかった。

 宣言だった。

 フェリスは、思わず息を吸った。

「……ありがとうございます」

 それ以上、言葉が見つからなかった。


---

 執務室を出た後、フェリスは中庭を歩いた。

 噴水の水音が、頭の中を静かに整えてくれる。

(私は、守られている……?)

 その考えに、戸惑いが生まれる。

 これまでの人生で、誰かが自分を“守る責任を負う”などと言ったことはなかった。婚約者も、父も、最終的には家名や都合を優先した。

 それなのに。

「……不思議ね」

 小さく呟く。

 メイド扱いのはずだった。
 返済のための労働のはずだった。

 それがいつの間にか、
 “皇帝の判断で守られる立場”に変わっている。

 ふと、背後から声がした。

「フェリス様」

 振り返ると、例の年配の侍女が立っている。

「城内では、いろいろ申す者もおりますが……」

 一瞬、言葉を選ぶように間を置き、続けた。

「陛下が、ここまで目を配られる方は、滅多におられません」

 フェリスは、驚いて目を見開いた。

「……そう、なのですか」

「ええ。ですから」

 侍女は、穏やかに微笑む。

「どうか、ご自分を低く見積もられませんよう」

 その言葉は、胸の奥に、静かに染み込んだ。


---

 その夜。

 自室に戻ったフェリスは、机に向かいながら、ふと手を止めた。

 噂。
 調査。
 責任を負うという言葉。

 そして、皇帝の静かな視線。

(……私は、何を見られているの?)

 才能か。
 忠誠か。
 それとも――

 フェリスは、まだ答えを知らない。

 だが、一つだけ確信していた。

 この城では、
 「売られた女」という過去は、もはや主語にならない。

 代わりに語られ始めているのは、
 「皇帝のそばに置かれている女」という、
 新しい立場だった。

 噂は、やがて形を変える。

 その中心に、自分がいることを、
 フェリス・リンクスは、まだ半分しか理解していなかった。
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