『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第10話 溺愛の自覚なき兆し

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第10話 溺愛の自覚なき兆し

 朝の執務室は、張りつめた静けさに包まれていた。

 フェリス・リンクスは、いつも通り書類の整理を進めながら、周囲の空気に微妙な変化があることに気づいていた。官吏たちの視線が、ほんのわずかに慎重になっている。昨日までの好奇や探りではなく、遠慮に近いものだ。

(……何か、あった?)

 答えは、ほどなくして現れた。

 扉が開き、近衛騎士が一礼する。

「陛下、例の件ですが」

「通せ」

 アーシュ・レーシャー皇帝の声は、いつもと変わらない。だが、その一言に、執務室の空気がさらに引き締まった。

 入ってきたのは、情報局の責任者だった。深く頭を下げ、簡潔に報告を始める。

「城内で流れていた噂の出所ですが……三系統確認できました。
 一つは、旧男爵家と繋がりのある商人。
 一つは、奴隷商人に近い裏組織。
 そして――」

 一瞬、間が置かれる。

「残る一つは、貴族院内部です」

 フェリスの手が、ぴたりと止まった。

 ――貴族院。

 アーシュは、表情を変えない。

「具体名は」

「現在、裏取り中です。ただし、共通しているのは――」

 情報局長は、ちらりとフェリスを見た。

「“フェリス・リンクスを貶めることで、陛下の判断を疑わせたい”という意図です」

 沈黙。

 フェリスは、ゆっくりと顔を上げた。

「……私の存在が、政治的な材料に?」

「結果としては、そうなる」

 答えたのは、アーシュだった。

「君自身の意思とは無関係にな」

 その言葉に、フェリスは胸の奥が冷たくなるのを感じた。再び“都合”で切り捨てられるのではないかという、過去の記憶が顔を出す。

「……でしたら」

 フェリスは、静かに言った。

「私は、陛下のもとを離れた方が――」

「却下だ」

 即断だった。

 フェリスは、思わず言葉を失う。

「君を切れば、連中の思惑通りになる」

 アーシュは、机に肘をつき、淡々と続ける。

「それに――」

 一瞬だけ、視線がフェリスに向けられる。

「君は、よく働いている」

 それは、事実の確認のような言い方だった。だが、フェリスの胸に、じんわりと熱が広がる。

「私情ではない」

 皇帝は、まるで自分自身に言い聞かせるように付け加えた。

「能力を正当に評価しているだけだ」

 情報局長は、口を挟まない。ただ、内心で何かを悟ったような顔をしていた。

「――以上です」

 一礼して退出する。

 扉が閉まると、執務室には再び二人だけが残った。

 フェリスは、迷いながらも口を開いた。

「……陛下」

「何だ」

「もし、私が本当に足手まといになるなら……」

「ならない」

 またしても、即答。

「君は、私の仕事を軽くしている。
 それ以上でも、それ以下でもない」

 その言葉に、フェリスは思わず微苦笑した。

「……それは、陛下が思っておられる以上に、重い評価です」

 アーシュは、一瞬だけ言葉に詰まったように見えた。

「……そうか」

 それ以上は、何も言わない。


---

 その日の夕刻。

 フェリスは、廊下で例の年配の侍女に呼び止められた。

「フェリス様、こちらを」

 差し出されたのは、上質な外套だった。質素だが、仕立ては一流。

「……これは?」

「陛下からです」

 さらりと告げられ、フェリスは目を見開く。

「夜は冷えますから、と」

 侍女は、穏やかに微笑んだ。

「執務補佐に、防寒具を用意される陛下は……珍しいのですよ」

 フェリスは、言葉を失った。

 気遣い。
 だが、あまりにも自然で、あまりにも個人的だ。

(……溺愛、では?)

 その考えが浮かび、すぐに否定する。

 違う。
 きっと、皇帝としての合理的判断だ。

 そう思おうとするほど、胸の奥がざわつく。


---

 夜。

 自室で外套を羽織りながら、フェリスはふと笑ってしまった。

「……おかしいわね」

 メイド扱いのはずだった。
 返済のための労働のはずだった。

 それがいつの間にか、
 守られ、気遣われ、
 政治の火種にまでなっている。

 だが、何より奇妙なのは――

「……陛下ご本人が、一番、自覚していない」

 アーシュ・レーシャー皇帝は、
 これほどの才能と美貌を“金で買えた幸運”だと思っている本音を、
 決して口にしない。

 それは、皇帝として、
 奴隷制度を肯定してしまう矛盾を知っているから。

 フェリスは、そのことを、まだ知らない。

 だが、確かに感じ始めていた。

 この城で芽生えているのは、
 単なる保護でも、取引でもない。

 自覚なき溺愛という、
 最も厄介で、最も逃げ場のない感情であることを。
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