10 / 41
第10話 溺愛の自覚なき兆し
しおりを挟む
第10話 溺愛の自覚なき兆し
朝の執務室は、張りつめた静けさに包まれていた。
フェリス・リンクスは、いつも通り書類の整理を進めながら、周囲の空気に微妙な変化があることに気づいていた。官吏たちの視線が、ほんのわずかに慎重になっている。昨日までの好奇や探りではなく、遠慮に近いものだ。
(……何か、あった?)
答えは、ほどなくして現れた。
扉が開き、近衛騎士が一礼する。
「陛下、例の件ですが」
「通せ」
アーシュ・レーシャー皇帝の声は、いつもと変わらない。だが、その一言に、執務室の空気がさらに引き締まった。
入ってきたのは、情報局の責任者だった。深く頭を下げ、簡潔に報告を始める。
「城内で流れていた噂の出所ですが……三系統確認できました。
一つは、旧男爵家と繋がりのある商人。
一つは、奴隷商人に近い裏組織。
そして――」
一瞬、間が置かれる。
「残る一つは、貴族院内部です」
フェリスの手が、ぴたりと止まった。
――貴族院。
アーシュは、表情を変えない。
「具体名は」
「現在、裏取り中です。ただし、共通しているのは――」
情報局長は、ちらりとフェリスを見た。
「“フェリス・リンクスを貶めることで、陛下の判断を疑わせたい”という意図です」
沈黙。
フェリスは、ゆっくりと顔を上げた。
「……私の存在が、政治的な材料に?」
「結果としては、そうなる」
答えたのは、アーシュだった。
「君自身の意思とは無関係にな」
その言葉に、フェリスは胸の奥が冷たくなるのを感じた。再び“都合”で切り捨てられるのではないかという、過去の記憶が顔を出す。
「……でしたら」
フェリスは、静かに言った。
「私は、陛下のもとを離れた方が――」
「却下だ」
即断だった。
フェリスは、思わず言葉を失う。
「君を切れば、連中の思惑通りになる」
アーシュは、机に肘をつき、淡々と続ける。
「それに――」
一瞬だけ、視線がフェリスに向けられる。
「君は、よく働いている」
それは、事実の確認のような言い方だった。だが、フェリスの胸に、じんわりと熱が広がる。
「私情ではない」
皇帝は、まるで自分自身に言い聞かせるように付け加えた。
「能力を正当に評価しているだけだ」
情報局長は、口を挟まない。ただ、内心で何かを悟ったような顔をしていた。
「――以上です」
一礼して退出する。
扉が閉まると、執務室には再び二人だけが残った。
フェリスは、迷いながらも口を開いた。
「……陛下」
「何だ」
「もし、私が本当に足手まといになるなら……」
「ならない」
またしても、即答。
「君は、私の仕事を軽くしている。
それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉に、フェリスは思わず微苦笑した。
「……それは、陛下が思っておられる以上に、重い評価です」
アーシュは、一瞬だけ言葉に詰まったように見えた。
「……そうか」
それ以上は、何も言わない。
---
その日の夕刻。
フェリスは、廊下で例の年配の侍女に呼び止められた。
「フェリス様、こちらを」
差し出されたのは、上質な外套だった。質素だが、仕立ては一流。
「……これは?」
「陛下からです」
さらりと告げられ、フェリスは目を見開く。
「夜は冷えますから、と」
侍女は、穏やかに微笑んだ。
「執務補佐に、防寒具を用意される陛下は……珍しいのですよ」
フェリスは、言葉を失った。
気遣い。
だが、あまりにも自然で、あまりにも個人的だ。
(……溺愛、では?)
その考えが浮かび、すぐに否定する。
違う。
きっと、皇帝としての合理的判断だ。
そう思おうとするほど、胸の奥がざわつく。
---
夜。
自室で外套を羽織りながら、フェリスはふと笑ってしまった。
「……おかしいわね」
メイド扱いのはずだった。
返済のための労働のはずだった。
それがいつの間にか、
守られ、気遣われ、
政治の火種にまでなっている。
だが、何より奇妙なのは――
「……陛下ご本人が、一番、自覚していない」
アーシュ・レーシャー皇帝は、
これほどの才能と美貌を“金で買えた幸運”だと思っている本音を、
決して口にしない。
それは、皇帝として、
奴隷制度を肯定してしまう矛盾を知っているから。
フェリスは、そのことを、まだ知らない。
だが、確かに感じ始めていた。
この城で芽生えているのは、
単なる保護でも、取引でもない。
自覚なき溺愛という、
最も厄介で、最も逃げ場のない感情であることを。
朝の執務室は、張りつめた静けさに包まれていた。
フェリス・リンクスは、いつも通り書類の整理を進めながら、周囲の空気に微妙な変化があることに気づいていた。官吏たちの視線が、ほんのわずかに慎重になっている。昨日までの好奇や探りではなく、遠慮に近いものだ。
(……何か、あった?)
答えは、ほどなくして現れた。
扉が開き、近衛騎士が一礼する。
「陛下、例の件ですが」
「通せ」
アーシュ・レーシャー皇帝の声は、いつもと変わらない。だが、その一言に、執務室の空気がさらに引き締まった。
入ってきたのは、情報局の責任者だった。深く頭を下げ、簡潔に報告を始める。
「城内で流れていた噂の出所ですが……三系統確認できました。
一つは、旧男爵家と繋がりのある商人。
一つは、奴隷商人に近い裏組織。
そして――」
一瞬、間が置かれる。
「残る一つは、貴族院内部です」
フェリスの手が、ぴたりと止まった。
――貴族院。
アーシュは、表情を変えない。
「具体名は」
「現在、裏取り中です。ただし、共通しているのは――」
情報局長は、ちらりとフェリスを見た。
「“フェリス・リンクスを貶めることで、陛下の判断を疑わせたい”という意図です」
沈黙。
フェリスは、ゆっくりと顔を上げた。
「……私の存在が、政治的な材料に?」
「結果としては、そうなる」
答えたのは、アーシュだった。
「君自身の意思とは無関係にな」
その言葉に、フェリスは胸の奥が冷たくなるのを感じた。再び“都合”で切り捨てられるのではないかという、過去の記憶が顔を出す。
「……でしたら」
フェリスは、静かに言った。
「私は、陛下のもとを離れた方が――」
「却下だ」
即断だった。
フェリスは、思わず言葉を失う。
「君を切れば、連中の思惑通りになる」
アーシュは、机に肘をつき、淡々と続ける。
「それに――」
一瞬だけ、視線がフェリスに向けられる。
「君は、よく働いている」
それは、事実の確認のような言い方だった。だが、フェリスの胸に、じんわりと熱が広がる。
「私情ではない」
皇帝は、まるで自分自身に言い聞かせるように付け加えた。
「能力を正当に評価しているだけだ」
情報局長は、口を挟まない。ただ、内心で何かを悟ったような顔をしていた。
「――以上です」
一礼して退出する。
扉が閉まると、執務室には再び二人だけが残った。
フェリスは、迷いながらも口を開いた。
「……陛下」
「何だ」
「もし、私が本当に足手まといになるなら……」
「ならない」
またしても、即答。
「君は、私の仕事を軽くしている。
それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉に、フェリスは思わず微苦笑した。
「……それは、陛下が思っておられる以上に、重い評価です」
アーシュは、一瞬だけ言葉に詰まったように見えた。
「……そうか」
それ以上は、何も言わない。
---
その日の夕刻。
フェリスは、廊下で例の年配の侍女に呼び止められた。
「フェリス様、こちらを」
差し出されたのは、上質な外套だった。質素だが、仕立ては一流。
「……これは?」
「陛下からです」
さらりと告げられ、フェリスは目を見開く。
「夜は冷えますから、と」
侍女は、穏やかに微笑んだ。
「執務補佐に、防寒具を用意される陛下は……珍しいのですよ」
フェリスは、言葉を失った。
気遣い。
だが、あまりにも自然で、あまりにも個人的だ。
(……溺愛、では?)
その考えが浮かび、すぐに否定する。
違う。
きっと、皇帝としての合理的判断だ。
そう思おうとするほど、胸の奥がざわつく。
---
夜。
自室で外套を羽織りながら、フェリスはふと笑ってしまった。
「……おかしいわね」
メイド扱いのはずだった。
返済のための労働のはずだった。
それがいつの間にか、
守られ、気遣われ、
政治の火種にまでなっている。
だが、何より奇妙なのは――
「……陛下ご本人が、一番、自覚していない」
アーシュ・レーシャー皇帝は、
これほどの才能と美貌を“金で買えた幸運”だと思っている本音を、
決して口にしない。
それは、皇帝として、
奴隷制度を肯定してしまう矛盾を知っているから。
フェリスは、そのことを、まだ知らない。
だが、確かに感じ始めていた。
この城で芽生えているのは、
単なる保護でも、取引でもない。
自覚なき溺愛という、
最も厄介で、最も逃げ場のない感情であることを。
1
あなたにおすすめの小説
私が嫌いなら婚約破棄したらどうなんですか?
きららののん
恋愛
優しきおっとりでマイペースな令嬢は、太陽のように熱い王太子の側にいることを幸せに思っていた。
しかし、悪役令嬢に刃のような言葉を浴びせられ、自信の無くした令嬢は……
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
選ばれたのは私ではなかった。ただそれだけ
暖夢 由
恋愛
【5月20日 90話完結】
5歳の時、母が亡くなった。
原因も治療法も不明の病と言われ、発症1年という早さで亡くなった。
そしてまだ5歳の私には母が必要ということで通例に習わず、1年の喪に服すことなく新しい母が連れて来られた。彼女の隣には不思議なことに父によく似た女の子が立っていた。私とあまり変わらないくらいの歳の彼女は私の2つ年上だという。
これからは姉と呼ぶようにと言われた。
そして、私が14歳の時、突然謎の病を発症した。
母と同じ原因も治療法も不明の病。母と同じ症状が出始めた時に、この病は遺伝だったのかもしれないと言われた。それは私が社交界デビューするはずの年だった。
私は社交界デビューすることは叶わず、そのまま治療することになった。
たまに調子がいい日もあるが、社交界に出席する予定の日には決まって体調を崩した。医者は緊張して体調を崩してしまうのだろうといった。
でも最近はグレン様が会いに来ると約束してくれた日にも必ず体調を崩すようになってしまった。それでも以前はグレン様が心配して、私の部屋で1時間ほど話をしてくれていたのに、最近はグレン様を姉が玄関で出迎え、2人で私の部屋に来て、挨拶だけして、2人でお茶をするからと消えていくようになった。
でもそれも私の体調のせい。私が体調さえ崩さなければ……
今では月の半分はベットで過ごさなければいけないほどになってしまった。
でもある日婚約者の裏切りに気づいてしまう。
私は耐えられなかった。
もうすべてに………
病が治る見込みだってないのに。
なんて滑稽なのだろう。
もういや……
誰からも愛されないのも
誰からも必要とされないのも
治らない病の為にずっとベッドで寝ていなければいけないのも。
気付けば私は家の外に出ていた。
元々病で外に出る事がない私には専属侍女などついていない。
特に今日は症状が重たく、朝からずっと吐いていた為、父も義母も私が部屋を出るなど夢にも思っていないのだろう。
私は死ぬ場所を探していたのかもしれない。家よりも少しでも幸せを感じて死にたいと。
これから出会う人がこれまでの生活を変えてくれるとも知らずに。
---------------------------------------------
※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
ヴェルセット公爵家令嬢クラリッサはどこへ消えた?
ルーシャオ
恋愛
完璧な令嬢であれとヴェルセット公爵家令嬢クラリッサは期待を一身に受けて育ったが、婚約相手のイアムス王国デルバート王子はそんなクラリッサを嫌っていた。挙げ句の果てに、隣国の皇女を巻き込んで婚約破棄事件まで起こしてしまう。長年の王子からの嫌がらせに、ついにクラリッサは心が折れて行方不明に——そして約十二年後、王城の古井戸でその白骨遺体が発見されたのだった。
一方、隣国の法医学者エルネスト・クロードはロロベスキ侯爵夫人ことマダム・マーガリーの要請でイアムス王国にやってきて、白骨死体のスケッチを見てクラリッサではないと看破する。クラリッサは行方不明になって、どこへ消えた? 今はどこにいる? 本当に死んだのか? イアムス王国の人々が彼女を惜しみ、探そうとしている中、クロードは情報収集を進めていくうちに重要参考人たちと話をして——?
手放してみたら、けっこう平気でした。
朝山みどり
恋愛
エリザ・シスレーは伯爵家の後継として、勉強、父の手伝いと努力していた。父の親戚の婚約者との仲も良好で、結婚する日を楽しみしていた。
そんなある日、父が急死してしまう。エリザは学院をやめて、領主の仕事に専念した。
だが、領主として努力するエリザを家族は理解してくれない。彼女は家族のなかで孤立していく。
氷の王妃は跪かない ―褥(しとね)を拒んだ私への、それは復讐ですか?―
柴田はつみ
恋愛
亡国との同盟の証として、大国ターナルの若き王――ギルベルトに嫁いだエルフレイデ。
しかし、結婚初夜に彼女を待っていたのは、氷の刃のように冷たい拒絶だった。
「お前を抱くことはない。この国に、お前の居場所はないと思え」
屈辱に震えながらも、エルフレイデは亡き母の教え――
「己の誇り(たましい)を決して売ってはならない」――を胸に刻み、静かに、しかし凛として言い返す。
「承知いたしました。ならば私も誓いましょう。生涯、あなたと褥を共にすることはございません」
愛なき結婚、冷遇される王妃。
それでも彼女は、逃げも嘆きもせず、王妃としての務めを完璧に果たすことで、己の価値を証明しようとする。
――孤独な戦いが、今、始まろうとしていた。
愛があれば、何をしてもいいとでも?
篠月珪霞
恋愛
「おいで」と優しく差し伸べられた手をとってしまったのが、そもそもの間違いだった。
何故、あのときの私は、それに縋ってしまったのか。
生まれ変わった今、再びあの男と対峙し、後悔と共に苦い思い出が蘇った。
「我が番よ、どうかこの手を取ってほしい」
過去とまったく同じ台詞、まったく同じ、焦がれるような表情。
まるであのときまで遡ったようだと錯覚させられるほどに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる