『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第18話 噂と視線

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第18話 噂と視線

 翌朝、町の空気は、どこか落ち着かないざわめきを帯びていた。

 フェリス・リンクスが領主館を出ると、通りの向こうで人々が一瞬だけ動きを止め、そして何事もなかったかのように視線を逸らす。その仕草が、かえって目立った。

(……広まり始めている)

 昨日の面会。
 旧男爵派の有力者たちが訪れたという事実は、すでに町中の噂になっていた。

「領主様、大丈夫なのかしら」 「若いのに、ずいぶん思い切ったことを……」 「でも、話は聞いてくれるらしいぞ」

 囁きは、不安と期待が入り混じったものだった。

 フェリスは、それを止めようとはしなかった。
 噂は、抑えれば歪む。
 ならば、正面から見せるしかない。


---

 この日、フェリスは市場を訪れた。

 護衛は最小限。
 侍女も、あえて距離を取らせている。

「……領主様?」

 最初に声をかけたのは、野菜を並べる老女だった。

「はい。フェリスです」

 名を名乗ると、老女は驚いたように目を丸くする。

「本当に……若いお嬢さんだねぇ」

「そうですね」

 フェリスは、素直に笑った。

「不安ですか?」

 老女は、しばらく黙り込み、それからぽつりと答えた。

「正直に言えば、あるよ。
 でも……」

 皺だらけの手が、野菜に触れる。

「話を聞いてくれる領主様は、久しぶりだ」

 その言葉は、静かだったが、重かった。

 フェリスは、深く頷いた。

「約束します。
 声を、無視しません」


---

 別の店では、若い職人が、半信半疑の目でこちらを見ていた。

「税が下がるって、本当なんですか」

 直球だった。

「正確には、“正しくなる”です」

 フェリスは、即答する。

「払える人が払う。
 払えない人から、無理に取らない」

 職人は、眉をひそめた。

「……そんなの、信じていいんですか」

 フェリスは、一瞬だけ考え、答えた。

「信じなくて構いません」

 意外な言葉に、周囲がざわつく。

「ですが」

 フェリスは、続けた。

「結果は、隠しません。
 帳簿も、施策も、すべて公開します」

 数字で示す。
 言葉ではなく。

 職人は、ゆっくりと息を吐いた。

「……それなら」

 小さな声だったが、確かだった。


---

 領主館に戻る途中、護衛が低声で告げる。

「一部の商人が、不満を募らせています」

「ええ」

 フェリスは、想定していた。

「特に、仲介で利益を得ていた者たちです」

 フェリスは、足を止めた。

「動きは?」

「探りを入れている段階かと」

 フェリスは、頷いた。

「では、こちらも準備を進めましょう」

 噂と視線は、序章にすぎない。
 本当の抵抗は、これからだ。


---

 夜。

 フェリスは、執務机に向かい、報告書をまとめていた。

 市場の声。
 商人の動き。
 役所内の反応。

 一つ一つが、線になり始めている。

「……怖くはありませんか」

 侍女が、静かに尋ねた。

 フェリスは、ペンを置いた。

「怖いですよ」

 正直な答えだった。

「でも」

 窓の外、町の灯りを見る。

「誰にも見られない統治の方が、もっと怖い」

 視線があるということは、
 期待があるということだ。


---

 その夜遅く、短い書簡が届いた。

> 噂は、統治の影だ。
見えないより、見える方がいい。
よく動いている。



 署名は、アーシュ・レーシャー。

 フェリスは、静かに紙を畳んだ。

 噂され、
 見られ、
 試される。

 それでも前に進む。

 フェリス・リンクスは、この日確信した。

 この地は、もう――
 沈黙する領地ではない。

 そして、自分はその中心に立っているのだと。
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