『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第19話 小さな裏切り

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第19話 小さな裏切り

 夜明け前の領主館は、ひどく静かだった。

 フェリス・リンクスは、まだ灯りの少ない執務室で、前日の報告書を読み返していた。市場の声、商人の動向、役所の反応――どれも表向きは落ち着いている。

 だが。

(……一つだけ、引っかかる)

 倉庫の出入り記録。
 数字は合っている。
 書式も正しい。

 それなのに、現物が足りない。

「……偶然ではないわね」

 フェリスは、そっと帳簿を閉じた。


---

 その日の午前。

 穀物倉庫の管理責任者である中年の男が、呼び出された。
 名はローデン。前領主の代から務める、地味だが真面目そうな人物だ。

「倉庫の確認をしました」

 フェリスは、穏やかに切り出す。

「帳簿と、現物に差があります」

 ローデンは、一瞬だけ視線を泳がせた。

「……輸送の際の誤差かと」

「どの輸送ですか?」

 即座の問い。

「え……先月の……」

「先月は、輸送記録がありません」

 沈黙が落ちる。

 ローデンの喉が、ごくりと鳴った。

「……小さなことです」

 絞り出すような声。

「民のためにも、問題にするほどでは――」

「小さいかどうかは、私が決めます」

 フェリスの声は、静かだった。

 だが、逃げ場はなかった。

「どこへ流しましたか」

 ローデンは、肩を落とした。

「……商人です」

「名前は」

 しばらくの沈黙の後、彼は答えた。

 昨日、市場で“不満を募らせている”と報告された商人の名だった。


---

「あなたは、前領主の側近ではありませんね」

 フェリスは、帳簿をめくりながら言った。

「ええ……」

「それでも、不正に手を染めた」

 ローデンは、拳を握り締めた。

「脅されました。
 家族のことを……」

 フェリスは、目を伏せた。

 それは、何度も聞いた言葉だ。

「……分かりました」

 ローデンは、顔を上げる。

「ですが」

 続く言葉に、表情が固まる。

「見逃すことはできません」

 フェリスは、はっきりと告げた。

「あなたは、職を解きます。
 ただし、即時拘束はしません」

 ローデンの目が揺れる。

「代わりに」

 フェリスは、視線をまっすぐ向けた。

「証言してください。
 脅迫の内容、指示系統、すべて」

 ローデンは、長い沈黙の末、頷いた。

「……話します」


---

 午後。

 侍女が、低い声で告げる。

「一部の商人が、倉庫の調査に気づいたようです」

「動きは?」

「証拠隠滅の可能性があります」

 フェリスは、即座に判断した。

「倉庫を封鎖。
 出入りを一時停止します」

「反発が――」

「構いません」

 フェリスは、迷わなかった。

「小さな裏切りを放置すれば、
 大きな腐敗になります」


---

 夕刻。

 町の一角で、噂が広がり始めていた。

「領主様、容赦ないらしいぞ」 「でも、話は聞くらしい」 「脅されてた者は、救われたって」

 評価は、割れている。
 だが、沈黙ではない。

 それが、何より重要だった。


---

 夜。

 フェリスは、短い報告書をまとめ、帝都へ送った。

 倉庫の不正。
 商人の関与。
 そして、証言者の存在。

 ほどなくして、返書が届く。

> 小さな裏切りを見逃さなかった判断は正しい。
脅迫を理由に免責しなかった点も、評価する。
だが、次は必ず揺り戻しが来る。備えよ。



 署名――アーシュ・レーシャー。

 フェリスは、静かに息を吐いた。

(……来るのね)

 反発ではない。
 噂でもない。

 次は、明確な妨害だ。

 フェリス・リンクスは、この日、はっきりと理解した。

 改革は、善意だけでは進まない。
 そして――

 裏切りは、必ず最初は小さく現れるのだと。

 それを見逃さなかったことが、
 自分が領主である証なのだと。
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