『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第30話 中央からの招請

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第30話 中央からの招請

 朝の鐘が、領主館に澄んだ音を落とした。

 フェリス・リンクスは、執務机で書類に目を通していたが、その音を合図のように手を止めた。
 境界での一件以来、空気が一段、張りつめている。

(……来る)

 根拠のない予感ではない。
 流れが、そう告げていた。


---

「領主様」

 侍女が、慎重な面持ちで入室する。

「帝都より、正式な使者が到着しております」

 “正式”。
 その一語で、意味は十分だった。

「通してください」

 フェリスは、即答した。


---

 応接室に現れたのは、帝国紋章を胸に刻んだ文官だった。
 年若いが、立ち居振る舞いは洗練されている。

「帝国中枢府より参りました。
 フェリス・リンクス領主に、
 皇帝陛下からの招請状をお届けに」

 差し出された封書には、見慣れた印章。

 ――アーシュ・レーシャー。

 フェリスは、静かに受け取った。


---

 封を切る。

 文面は、簡潔だった。

> フェリス・リンクス領主

近頃の一連の動きについて、
直接、意見を聞きたい。

帝都に来られたし。



 命令ではない。
 だが、断る前提でもない。

「……いつまでに?」

「期日は、設けられておりません」

 文官は、穏やかに答える。

「ただし、
 “今”であることが望ましい、と」

 フェリスは、小さく息を吐いた。

(……逃げ場は、最初から用意されていない)


---

 文官が退室した後。

 侍女が、静かに問いかける。

「行かれますか」

 フェリスは、迷わなかった。

「行きます」

 即答だった。

「呼ばれる理由があるなら、
 答えを持って行くべきです」

 売られた時のように、
 一方的に連れて行かれるわけではない。

 今回は――
 自分の足で向かう。


---

 午後。

 フェリスは、領地の幹部を集めた。

「私が帝都へ向かいます」

 一瞬、ざわめきが起こる。

「留守の間の運営は、
 これまで通り、合議制で」

 指示は、具体的だった。

「境界の扱いは、現状維持。
 新たな交渉は、私が戻るまで保留」

 不安を、与えない。

 それが、領主としての責任だ。


---

 夜。

 荷造りは、最小限。

 豪奢な服も、過剰な護衛も用意しない。

「……随分、質素ですね」

 侍女が、少し心配そうに言う。

「見せるために行くのではありません」

 フェリスは、穏やかに答えた。

「話すために行きます」


---

 出発前。

 辺境伯代理ローディスから、短い暗号文が届く。

> 中央が動いたか。
正面から行け。
裏口は、必ず代償を伴う。



 フェリスは、頷いた。

(……皆、同じことを言う)


---

 そして、最後に届いた私信。

> 呼んだ。

境界を守れる者が、
どこまで見ているのか。

それを、知りたい。



 署名――アーシュ・レーシャー。

 フェリスは、封書を胸に当てた。

 売られた過去があった。
 奪われた名もあった。

 だが今は――
 選ばれ、招かれ、意見を求められている。

 フェリス・リンクスは、この夜、静かに理解した。

 これは、栄誉ではない。
 試練でもない。

 対話の席だ。

 そしてその席に、
 “地方領主フェリス・リンクス”として座ること。

 それこそが、
 自分が積み上げてきたすべての答えなのだと。
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