『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第35話 試される覚悟

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第35話 試される覚悟

 変化は、数字となって現れ始めた。

 月例報告の帳簿を前に、フェリス・リンクスは静かに指を滑らせる。

(……落ちている)

 税収ではない。
 収穫量でもない。

 流通量だ。

 帳簿の端に記された注釈が、それを裏付けていた。

「中央系商会が、予定していた輸送を一部見送っています」

 財務官が、硬い表情で報告する。

「理由は?」

「“需要の変動”とのことですが……」

 フェリスは、続きを促さなかった。

 理由など、分かりきっている。

 静かな反撃に対する、
 次の手だ。


---

「在庫は?」

「当面は問題ありません」

「民の生活は?」

「変化なし。
 ……ですが、先を見れば」

 財務官は、言葉を切った。

「不安を煽る動きが、出る可能性があります」

 フェリスは、頷いた。

「来ますね」

 数字で締め、
 噂で揺さぶる。

 最も古く、
 最も効果的なやり方。


---

 その日の午後。

 町で、小さな騒ぎが起きた。

「フェリス領は、中央に睨まれているらしい」

「このままじゃ、商売が成り立たないんじゃ……」

 囁きは、火のように広がる。

 だが、フェリスは動かなかった。

 代わりに、呼び集める。


---

 集会所。

 農民、職人、商人が集まる中、
 フェリスは、いつも通りの服装で立った。

 飾らない。
 威圧しない。

「不安の声が、出ていると聞きました」

 ざわめきが、ぴたりと止まる。

「事実です」

 フェリスは、隠さなかった。

「中央の商会の一部は、
 この領地との取引を絞り始めています」

 息を呑む音。

 だが、フェリスは続ける。

「ですが」

 一拍。

「それで、皆さんの生活は、
 昨日と比べて、何か変わりましたか?」

 沈黙。

 誰も、すぐには答えられない。


---

「仕事は、ありますか」

 職人が、恐る恐る頷く。

「畑は?」

「……いつも通りだ」

「売り先は?」

 商人が、少し考えてから答える。

「減ったが……
 ゼロじゃない」

 フェリスは、静かに微笑んだ。

「それが、答えです」


---

「不安は、想像から生まれます」

 フェリスの声は、穏やかだった。

「現実が崩れていないのに、
 先に心が折れると、
 本当に崩れます」

 視線を、全員に向ける。

「私は、この領地を
 “短期の利益”で動かしません」

 ざわめきが、少しずつ落ち着く。

「だから、今は苦しくならない代わりに、
 すぐ楽にもなりません」

 正直な言葉だった。


---

「……それでも、ついて行けますか」

 問いかけに、沈黙が落ちる。

 やがて、一人が言った。

「ここは、話を聞いてくれる」

 別の声が続く。

「約束を、破らなかった」

 最後に、誰かが言った。

「……信じる理由は、ある」

 フェリスは、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 それ以上、何も言わなかった。


---

 夜。

 執務室で、フェリスは一人、灯りを見つめていた。

(……試されている)

 相手は、
 この領地が、
 どこまで耐えられるかを見ている。

 だが同時に、
 フェリス自身も試されている。

(私は、折れないか)

 売られた過去。
 拾われた過去。

 それらが、脳裏をよぎる。

 だが、今は違う。

 ここには、
 自分の判断を信じて立つ人がいる。


---

 フェリス・リンクスは、この夜、はっきりと覚悟した。

 譲らない。
 誤魔化さない。
 急がない。

 揺さぶりに屈しない覚悟。

 それは、剣でも、権威でもない。

 人と、人との間に積み上げた、
 目に見えない土台だった。

 そしてその土台こそが、
 次に来る“本当の一手”を、
 受け止める力になることを――
 フェリスは、確信していた。
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