完璧すぎるので捨てられましたが、冷徹公爵と“白い結婚”したら元婚約者が先に壊れました

鷹 綾

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第29話 名前をつけない感情

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第29話 名前をつけない感情

 舞踏会から数日が過ぎた。

 城は、いつも通り静かだ。
 噂も、干渉も、嘘のように消えている。

 ――すべて、片付いたはずだった。

(……なのに)

 セレナは、書斎で書類を閉じた。

 集中できない。
 理由は、分かっている。

(名前をつけていないから、ですわね)

 ***

 廊下で、クロードとすれ違う。

「……お疲れですか」 「少しだけ」

 短いやり取り。
 距離は、きちんとある。

 だが。

 互いに、何かを避けている。

 それは触れることではない。
 踏み込むことでもない。

 ――言葉だ。

 ***

 夕刻。

 セレナは、庭園のベンチに腰掛けていた。
 思考を整理するために。

(舞踏会の夜)

(視線が合って、
 離れて、
 それでも残った感覚)

 あれは、何だったのか。

(愛、と言うには――)

 重すぎる。
 軽々しく呼びたくない。

(情、と言うには――)

 淡白すぎる。
 ここまで育つものではない。

(……なら)

 名前をつけなければいい。

 そう結論づけた瞬間。

「……ここにいたか」

 クロードの声。

「考え事ですか」 「ああ。君もだろう」

 逃げ場のない、指摘。

 彼は、ベンチの隣に立ったまま言う。

「舞踏会の後から」 「ええ」 「……空気が、少し変わった」

 セレナは、正直に答えた。

「変わったのではなく」 「……?」 「明確になったのだと思います」

 クロードは、黙って続きを促す。

「名前をつけなくても、
 存在するものがある、と」

 風が、木々を揺らす。

「だが」  クロードが低く言った。 「名付けなければ、
 逃げ道にもなる」

 その言葉に、セレナは息をのむ。

「……ずるいですわね」 「分かっている」

 彼は、苦く笑った。

「だが今は、
 その逃げ道が必要だ」

 セレナは、しばらく黙ってから頷いた。

「ええ。
 まだ――
 選ぶ段階ではありません」

 ***

 沈黙が、落ちる。

 だが、それは居心地が悪くない。

 クロードが、ふと視線を外した。

「……もし」 「はい」 「この感情に、
 名前をつける日が来たら」

 セレナは、彼を見る。

「その時は」 「……逃げない」 「ええ」

 それだけで、十分だった。

 ***

 夜。

 それぞれの部屋。

 セレナは、窓辺で空を見上げる。

(名前をつけない感情)

(それは、
 曖昧だからこそ、
 壊れにくい)

 クロードも、同じ空を見ていた。

(……名付けるということは)

(責任を負う、ということだ)

 まだ、急ぐ必要はない。

 今は。

 並んで、同じ感情を抱いている
 それだけで、十分だった。

 白い結婚。
 距離。
 約束。

 それらの隙間に、
 静かに息づくもの。

 名前は、まだ要らない。

 けれど――

 いつか、
 呼ばれる日が来る。

 二人とも、
 それを分かっていた。


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