婚約破棄された悪役令嬢ですが、英雄にも聖女にもなりません

鷹 綾

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第20話 試される沈黙と、揺るがぬ一線

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第20話 試される沈黙と、揺るがぬ一線

 その夜、私はほとんど眠れなかった。

 目を閉じるたびに、
 路地裏の気配、短剣に伸びた手、
 そして――逃げなかった自分の判断が、頭の中で再生される。

(……慣れてはいけない)

 危険に。
 緊張に。
 そして、“裏で動くこと”に。

 慣れた瞬間、人は線を踏み越える。

 朝、外套を羽織りながら、私は自分に言い聞かせた。

(私は、騎士団でも、密偵でもない)

(ただ――見て、判断して、伝えるだけ)

 ギルドは、いつも通りの喧騒に包まれていた。
 だが、その裏で確実に何かが変わっている。

「エレナ」

 赤毛の受付嬢が、声を潜めて呼び止める。

「昨日、回復薬を巡って揉めた商人がいたでしょう?」

「……はい」

「今朝になって、その商人が姿を消したの」

 背筋に、冷たいものが走る。

「夜逃げ、だそうよ。
 店も畳んで、在庫も全部」

(……口封じ)

 それも、かなり素早い。

「気にしない方がいい」

 受付嬢は、そう言いながらも、不安を隠せていなかった。

「深入りすると、ろくなことにならない」

「……分かっています」

 分かっている。
 だからこそ、無視できない。

 昼前、私は市場を歩いた。

 露店の並び。
 人の流れ。
 声の張り方。

(……動きが鈍っている)

 回復薬を扱う店が、妙に慎重だ。
 価格は上がり、説明は曖昧。

 誰かが、“見られている”と知った動き。

 私は、あえて何も買わず、
 ただ歩き、聞き、覚えた。

 午後、人気のない裏庭で、ルーカスと合流する。

「……相手は、警戒を強めています」

 私がそう告げると、彼は静かに頷いた。

「こちらの存在を、確信し始めたな」

「でも、まだ正体までは掴めていない」

「だろう。
 君が名を出さない限りは」

 短い沈黙。

「……怖くなったか?」

 不意に、そう聞かれた。

 私は、少し考えてから答える。

「怖いです」

 正直に。

「でも……やめる理由には、なりません」

 ルーカスは、目を細めた。

「無理をしている目ではないな」

「一線は、守っています」

 それだけは、譲らない。

 命を奪わない。
 誰かを囮にしない。
 嘘で、無関係な人を巻き込まない。

 それが、私の一線。

「……分かった」

 ルーカスは、静かに言った。

「次の段階に進む」

「次……?」

「相手が、こちらを試してくる」

 その言葉に、胸が鳴る。

「沈黙を破るか、
 あるいは――偽の情報を流してくる」

 私は、拳を軽く握った。

「……その時は?」

「君は、動かなくていい」

 意外な言葉だった。

「沈黙を守れ。
 それ自体が、こちらの答えになる」

 沈黙。
 それもまた、選択。

 夕方、宿へ戻る途中、
 私はふと立ち止まった。

 通りの向こう、
 一瞬だけ視線が合い、すぐに逸らされる。

(……監視)

 分かりやすい。
 けれど、下手ではない。

 私は、何も気づかなかったふりをして歩き出す。

 部屋に戻り、灯りを落とす。

 窓の外には、街の明かり。

「……試されているのね」

 力ではない。
 正しさでもない。

 ――沈黙と、覚悟を。

 私は、静かに目を閉じる。

 名もなき協力者として、
 今できる最善は、動かないこと。

 踏み出す時は、必ず来る。

 それまでは――
 揺るがぬ一線を守り続けるだけ。

 その沈黙が、
 やがて誰かの焦りを引き出すことを、
 私は、確信していた。
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