完璧すぎる令嬢は婚約破棄されましたが、白い結婚のはずが溺愛対象になっていました

鷹 綾

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第8話 白い結婚の提案

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第8話 白い結婚の提案

 セーブル・フォン・グラナートがアルセイン公爵家を去ったあと、応接室にはしばらく静寂が残った。

 ヴェルティア・アルセインは、机の上に置かれたままの書簡を見つめていた。
 封は切られていない。
 だが、そこに記された内容は、ほとんど手に取るように分かっている。

(合理的で、冷静で……逃げ道のある契約)

 それは、今の彼女にとって、あまりにも魅力的だった。

 だが同時に、違和感もあった。

(なぜ、私なの)

 有能な令嬢は他にもいる。
 政治的な価値だけで言えば、王宮と強く結びつく家門の娘を選ぶ方が、よほど得策なはずだ。

 ヴェルティアは、静かに封を切った。

 中に入っていたのは、簡潔な文面と、いくつかの条件が記された契約書案だった。

『本契約は、互いの独立性を尊重することを第一とする』 『婚姻は形式上のものであり、私的干渉を行わない』 『王宮および政治的圧力から、互いを守る盾となる』

 感情を排した文章。
 余計な言葉は一切ない。

(……本当に、白い結婚)

 ヴェルティアは、思わず小さく息を吐いた。

 そこには「妻としての役割」も、「後継を求める文言」も、何一つ書かれていない。
 あるのは、徹底した合理性と、相互不可侵の原則だけ。

「……誠実すぎるわね」

 独り言のように呟いた声は、部屋に溶けて消えた。

 その日の夕刻、ヴェルティアは父の書斎を訪れた。
 アルセイン公爵は、すでに話の内容を察していたのだろう。書類から目を上げると、何も言わずに娘を迎え入れた。

「グラナート公爵からの提案だな」

「はい」

 ヴェルティアは、契約書案を机の上に置いた。

「……ずいぶん、割り切った内容だ」

 父は目を通しながら、低く唸る。

「干渉なし。役割の強制なし。
 王宮からの独立を保証する盾……」

 しばらく黙読したあと、父は顔を上げた。

「悪くない。
 いや、むしろ……よく考えられている」

「私も、そう思います」

 だが、とヴェルティアは続けた。

「それでも、確認したいことがあります」

「何だ」

「私が、再び“使われる側”になる可能性はありませんか」

 その問いに、父は即答しなかった。
 だが、数秒の沈黙の後、静かに首を横に振る。

「少なくとも、セーブル・フォン・グラナートは、その手の男ではない」

「なぜ、そう言い切れるのですか」

「彼は、駒を使う男ではない。
 ――駒を嫌う男だ」

 その言葉に、ヴェルティアは小さく目を見開いた。

「合理主義者であるがゆえに、信頼関係を壊す行為を最も嫌う。
 そして、信頼できる者を軽々しく扱わない」

 父は、少しだけ表情を和らげた。

「お前に向けた条件を見れば分かる。
 あれは、縛るための契約ではない」

 ヴェルティアは、ゆっくりと頷いた。

(……やはり)

 彼女自身も、セーブルの言葉に同じ印象を抱いていた。

 その夜、ヴェルティアは自室で改めて契約書案を読み返していた。
 だが、今度はただ読むだけではない。

 ペンを取り、余白に自分の条件を書き加えていく。

『互いの生活領域への無断干渉を禁ずる』 『王宮関連の案件への対応は、事前協議を必須とする』 『婚姻の解消は、双方合意のもと、いつでも可能とする』

(逃げ道は、必ず確保する)

 それが、彼女の譲れない一線だった。

 数時間後。
 すべてを書き終えたヴェルティアは、ペンを置き、背もたれに身を預けた。

(……不思議)

 恐怖はない。
 不安も、ほとんど感じない。

 それどころか――。

(少し、安心している)

 誰かと組むことに、これほど抵抗がないのは初めてだった。

 翌日。
 グラナート公爵家から、正式な返答を求める使者が訪れた。

「条件を確認いただけましたか」

「ええ」

 ヴェルティアは、落ち着いた声で答えた。

「こちらから、いくつか条件を追加しています」

 差し出された書面に目を通した使者は、わずかに目を見開いたが、すぐに表情を引き締めた。

「……承知しました。
 公爵閣下にお届けいたします」

 数日後、返ってきた返書は、驚くほど簡潔だった。

『すべて了承する』

 その一文だけ。

 ヴェルティアは、しばらくその文字を見つめてから、小さく息を吐いた。

「……本当に、合理的な方」

 そして、ゆっくりとペンを取り、契約書に署名する。

 ――ヴェルティア・アルセイン。

 それは、王太子妃候補としての署名ではない。
 一人の女性として、自分の未来を選び取るための署名だった。

(白い結婚)

 その言葉は、冷たく、無機質な響きを持つ。

 だが今の彼女にとって、それは鎖ではなく――
 確かな“盾”だった。

 こうして、二人の関係は始まった。

 まだ、感情のない契約として。
 まだ、互いに干渉しない約束のもとで。

 だが、後に誰もが知ることになる。

 この“白い結婚”が、
 最も色濃い感情を生む契約であったことを。


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