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第24話 一線の意味
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第24話 一線の意味
夜更けのグラナート公爵家は、昼とは別の顔を見せる。
使用人の足音は消え、
長い廊下には、燭台の炎だけが静かに揺れていた。
ヴェルティア・フォン・グラナートは、自室の窓を閉め、羽織を手に取ったところで、ふと動きを止めた。
(……静かすぎる)
不安ではない。
だが、胸の奥に、微かなざわめきがある。
――その時だった。
控えめなノックの音が、扉を叩いた。
「……ヴェルティア」
聞き慣れた声。
セーブルだ。
一瞬、躊躇する。
夜に、彼が私室を訪ねてくることは、これまでなかった。
(……一線)
無意識に、その言葉が浮かぶ。
白い結婚。
再定義された契約。
だが、それでも、夜に踏み込むという行為には、意味がある。
「……どうぞ」
そう答えた自分に、驚きはなかった。
扉が開き、セーブルが姿を現す。
いつもの冷静な表情。
だが、その瞳には、わずかな迷いが宿っていた。
「……遅い時間に、すまない」
「構いません」
ヴェルティアは、彼を中へ招き入れた。
扉が閉まる。
それだけで、空気が変わった。
「……何か、ありましたか」
彼女が問いかけると、セーブルは一拍置いた。
「王都から、追加の報告が来た」
手にしていた書類を差し出す。
内容は、噂の続報。
そして――アルベリクの動き。
「……再度、接触を試みる可能性がある、ですか」
「ああ」
セーブルは、低く答えた。
「次は、より直接的になるだろう」
ヴェルティアは、書類を机に置いた。
(……来るなら、来ればいい)
そう思える自分がいる。
「……君は、怖くないのか」
唐突な問い。
ヴェルティアは、少しだけ考えた。
「怖くないと言えば、嘘になります」
正直な答え。
「でも……以前ほどではありません」
守られている、という自覚があるからではない。
拒絶する力を、自分が持っていると知ったからだ。
「……そうか」
セーブルは、短く息を吐いた。
沈黙。
だが、今度の沈黙は、重い。
「……一線を、守るべきだと」
彼が、低く言った。
「理屈では、分かっている」
ヴェルティアは、彼を見た。
「理屈、だけですか」
その問いに、セーブルは言葉を失った。
「……私は」
彼は、珍しく言葉を選んでいる。
「契約を再定義した。
だが、それでも……」
視線が、逸れる。
「踏み込めば、戻れなくなる」
その一言に、ヴェルティアの胸が静かに鳴った。
(……同じことを、考えている)
「……一線は」
ヴェルティアが、ゆっくりと言った。
「守るためにあるのだと思っていました」
セーブルは、黙って聞いている。
「でも、最近は……」
言葉を探しながら、続ける。
「一線は、越えないためだけのものではない、と」
彼の視線が、再び彼女に戻る。
「……どういう意味だ」
「越える準備ができているか、
確かめるための線、です」
その言葉に、セーブルの表情がわずかに変わった。
「……君は」
「はい」
ヴェルティアは、逃げずに頷いた。
「私は、準備ができています」
静かな宣言。
誘いでも、挑発でもない。
ただ、事実を述べただけだ。
セーブルは、しばらく沈黙した。
やがて、一歩だけ距離を縮める。
触れない。
だが、近い。
「……私が、抑えているのは」
低い声。
「理性だけではない」
ヴェルティアは、微かに目を見開いた。
「……分かっています」
分かっているからこそ、怖い。
分かっているからこそ、選んだ。
「……踏み込みますか」
セーブルの問いは、命令でも誘導でもない。
確認だった。
ヴェルティアは、短く息を吸い、答える。
「……はい」
それだけで、十分だった。
セーブルは、それ以上近づかなかった。
触れもしない。
だが、その抑制こそが、彼の答えだった。
「……今日は、ここまでにしよう」
そう言って、彼は一歩下がる。
ヴェルティアは、驚かなかった。
(……これでいい)
越えたのは、物理的な線ではない。
心理的な線だ。
互いに、
“踏み込める”と知った。
それが、何より大きい。
扉の前で、セーブルは振り返った。
「……ありがとう」
その言葉に、ヴェルティアは小さく微笑む。
「こちらこそ」
扉が閉まる。
静寂が戻る。
だが、先ほどまでとは違う。
(……一線の意味)
それは、
守るためだけの壁ではなく、
越える覚悟を測る境界だった。
白から色へ。
そして、色は――
もう、後戻りできないほどに、
確かな輪郭を帯び始めていた。
---
夜更けのグラナート公爵家は、昼とは別の顔を見せる。
使用人の足音は消え、
長い廊下には、燭台の炎だけが静かに揺れていた。
ヴェルティア・フォン・グラナートは、自室の窓を閉め、羽織を手に取ったところで、ふと動きを止めた。
(……静かすぎる)
不安ではない。
だが、胸の奥に、微かなざわめきがある。
――その時だった。
控えめなノックの音が、扉を叩いた。
「……ヴェルティア」
聞き慣れた声。
セーブルだ。
一瞬、躊躇する。
夜に、彼が私室を訪ねてくることは、これまでなかった。
(……一線)
無意識に、その言葉が浮かぶ。
白い結婚。
再定義された契約。
だが、それでも、夜に踏み込むという行為には、意味がある。
「……どうぞ」
そう答えた自分に、驚きはなかった。
扉が開き、セーブルが姿を現す。
いつもの冷静な表情。
だが、その瞳には、わずかな迷いが宿っていた。
「……遅い時間に、すまない」
「構いません」
ヴェルティアは、彼を中へ招き入れた。
扉が閉まる。
それだけで、空気が変わった。
「……何か、ありましたか」
彼女が問いかけると、セーブルは一拍置いた。
「王都から、追加の報告が来た」
手にしていた書類を差し出す。
内容は、噂の続報。
そして――アルベリクの動き。
「……再度、接触を試みる可能性がある、ですか」
「ああ」
セーブルは、低く答えた。
「次は、より直接的になるだろう」
ヴェルティアは、書類を机に置いた。
(……来るなら、来ればいい)
そう思える自分がいる。
「……君は、怖くないのか」
唐突な問い。
ヴェルティアは、少しだけ考えた。
「怖くないと言えば、嘘になります」
正直な答え。
「でも……以前ほどではありません」
守られている、という自覚があるからではない。
拒絶する力を、自分が持っていると知ったからだ。
「……そうか」
セーブルは、短く息を吐いた。
沈黙。
だが、今度の沈黙は、重い。
「……一線を、守るべきだと」
彼が、低く言った。
「理屈では、分かっている」
ヴェルティアは、彼を見た。
「理屈、だけですか」
その問いに、セーブルは言葉を失った。
「……私は」
彼は、珍しく言葉を選んでいる。
「契約を再定義した。
だが、それでも……」
視線が、逸れる。
「踏み込めば、戻れなくなる」
その一言に、ヴェルティアの胸が静かに鳴った。
(……同じことを、考えている)
「……一線は」
ヴェルティアが、ゆっくりと言った。
「守るためにあるのだと思っていました」
セーブルは、黙って聞いている。
「でも、最近は……」
言葉を探しながら、続ける。
「一線は、越えないためだけのものではない、と」
彼の視線が、再び彼女に戻る。
「……どういう意味だ」
「越える準備ができているか、
確かめるための線、です」
その言葉に、セーブルの表情がわずかに変わった。
「……君は」
「はい」
ヴェルティアは、逃げずに頷いた。
「私は、準備ができています」
静かな宣言。
誘いでも、挑発でもない。
ただ、事実を述べただけだ。
セーブルは、しばらく沈黙した。
やがて、一歩だけ距離を縮める。
触れない。
だが、近い。
「……私が、抑えているのは」
低い声。
「理性だけではない」
ヴェルティアは、微かに目を見開いた。
「……分かっています」
分かっているからこそ、怖い。
分かっているからこそ、選んだ。
「……踏み込みますか」
セーブルの問いは、命令でも誘導でもない。
確認だった。
ヴェルティアは、短く息を吸い、答える。
「……はい」
それだけで、十分だった。
セーブルは、それ以上近づかなかった。
触れもしない。
だが、その抑制こそが、彼の答えだった。
「……今日は、ここまでにしよう」
そう言って、彼は一歩下がる。
ヴェルティアは、驚かなかった。
(……これでいい)
越えたのは、物理的な線ではない。
心理的な線だ。
互いに、
“踏み込める”と知った。
それが、何より大きい。
扉の前で、セーブルは振り返った。
「……ありがとう」
その言葉に、ヴェルティアは小さく微笑む。
「こちらこそ」
扉が閉まる。
静寂が戻る。
だが、先ほどまでとは違う。
(……一線の意味)
それは、
守るためだけの壁ではなく、
越える覚悟を測る境界だった。
白から色へ。
そして、色は――
もう、後戻りできないほどに、
確かな輪郭を帯び始めていた。
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