25 / 40
第25話 触れない約束
しおりを挟む
第25話 触れない約束
翌朝。
グラナート公爵家の朝は、いつもと変わらず始まった。
廊下を行き交う使用人の足取り。
食堂に並ぶ朝食。
規則正しく、整った日常。
だが、その中に――
わずかな緊張が混じっていることに、誰もが気づいていた。
ヴェルティア・フォン・グラナートは、席に着きながら、視線を伏せた。
(……平常心)
昨夜の出来事を、引きずるわけにはいかない。
踏み込んだのは、心理的な線だけ。
触れていない。
越えていない。
だから、今朝もいつも通りでいられる――はずだった。
「……おはよう」
セーブルの声が、やや低く響く。
「おはようございます」
ヴェルティアは、顔を上げ、目を合わせた。
一瞬。
互いに、昨夜を思い出す。
(……意識している)
それだけで、空気が張り詰める。
使用人が紅茶を注ぐ手が、ほんのわずかに止まった。
(……気づかれている)
だが、それは“何かあった”という確信ではない。
ただ、空気の変化だ。
「……今日の予定だが」
セーブルが、いつもより少し早く話し出す。
「王都から、視察団が来る」
「承知しました」
淡々としたやり取り。
だが、言葉の合間に、沈黙が挟まる。
以前なら、何とも思わなかった沈黙。
今は、意味を持ってしまう。
(……触れない約束)
昨夜、明確に言葉にしたわけではない。
だが、互いに理解していた。
“今日は、越えない”。
それは、逃げではない。
慎重さでもない。
選択だ。
午前中。
執務室での共同作業も、微妙に変化していた。
資料を渡す距離。
視線が合う時間。
どれも、ほんの僅かな違い。
だが、その僅かさが、強烈に意識される。
「……ここですが」
ヴェルティアが指し示す。
セーブルは、身を乗り出す――が、途中で止まる。
一歩、距離を保つ。
(……抑えている)
ヴェルティアは、それに気づき、胸が静かに締めつけられた。
(……私も)
触れたい、ではない。
踏み込める、と分かってしまったことが、重い。
視察団が到着したのは、昼前だった。
形式的な挨拶。
整った応対。
だが、来客の視線は、二人を交互に観察している。
「……噂通り、落ち着いたご夫妻ですね」
遠回しな言い方。
白い結婚の噂。
そして、最近の反転。
ヴェルティアは、穏やかに微笑む。
「必要以上に、取り繕わないだけです」
セーブルは、横で黙っている。
だが、その沈黙は、距離ではない。
信頼だ。
(……触れなくても、伝わる)
それが、今の二人の形だった。
夕刻。
視察団が去り、屋敷に静けさが戻る。
庭園を歩く二人の間には、自然と間が空いていた。
「……今日は」
セーブルが、珍しく言葉を探す。
「……疲れたか」
「少しだけ」
ヴェルティアは、正直に答えた。
「でも、不思議と……」
言葉を切る。
「不安は、ありません」
それは、昨夜の“確認”があったからだ。
踏み込めると知った。
拒まれないと知った。
だから、今は距離を保てる。
「……それなら、いい」
セーブルは、短く答えた。
日が沈み、夜が訪れる。
書斎での時間。
互いに別の本を読みながら、同じ空間にいる。
言葉は、少ない。
だが、昨夜までの“白”とは違う。
(……危うい)
ヴェルティアは、ふと思う。
触れない約束は、安定ではない。
均衡だ。
少しでも気を抜けば、崩れる。
だからこそ。
(……選び続ける必要がある)
夜更け。
本を閉じ、立ち上がる。
「……おやすみなさい」
「ああ。
……おやすみ」
互いに、立ち止まらない。
振り返らない。
だが、背中で感じている。
この距離が、永遠ではないことを。
触れない約束は、
永続する誓いではない。
それは――
“今は、まだ触れない”という、
明確な選択だ。
そして、その選択が続く限り。
二人の関係は、
甘さよりも、
深さを増していく。
翌朝。
グラナート公爵家の朝は、いつもと変わらず始まった。
廊下を行き交う使用人の足取り。
食堂に並ぶ朝食。
規則正しく、整った日常。
だが、その中に――
わずかな緊張が混じっていることに、誰もが気づいていた。
ヴェルティア・フォン・グラナートは、席に着きながら、視線を伏せた。
(……平常心)
昨夜の出来事を、引きずるわけにはいかない。
踏み込んだのは、心理的な線だけ。
触れていない。
越えていない。
だから、今朝もいつも通りでいられる――はずだった。
「……おはよう」
セーブルの声が、やや低く響く。
「おはようございます」
ヴェルティアは、顔を上げ、目を合わせた。
一瞬。
互いに、昨夜を思い出す。
(……意識している)
それだけで、空気が張り詰める。
使用人が紅茶を注ぐ手が、ほんのわずかに止まった。
(……気づかれている)
だが、それは“何かあった”という確信ではない。
ただ、空気の変化だ。
「……今日の予定だが」
セーブルが、いつもより少し早く話し出す。
「王都から、視察団が来る」
「承知しました」
淡々としたやり取り。
だが、言葉の合間に、沈黙が挟まる。
以前なら、何とも思わなかった沈黙。
今は、意味を持ってしまう。
(……触れない約束)
昨夜、明確に言葉にしたわけではない。
だが、互いに理解していた。
“今日は、越えない”。
それは、逃げではない。
慎重さでもない。
選択だ。
午前中。
執務室での共同作業も、微妙に変化していた。
資料を渡す距離。
視線が合う時間。
どれも、ほんの僅かな違い。
だが、その僅かさが、強烈に意識される。
「……ここですが」
ヴェルティアが指し示す。
セーブルは、身を乗り出す――が、途中で止まる。
一歩、距離を保つ。
(……抑えている)
ヴェルティアは、それに気づき、胸が静かに締めつけられた。
(……私も)
触れたい、ではない。
踏み込める、と分かってしまったことが、重い。
視察団が到着したのは、昼前だった。
形式的な挨拶。
整った応対。
だが、来客の視線は、二人を交互に観察している。
「……噂通り、落ち着いたご夫妻ですね」
遠回しな言い方。
白い結婚の噂。
そして、最近の反転。
ヴェルティアは、穏やかに微笑む。
「必要以上に、取り繕わないだけです」
セーブルは、横で黙っている。
だが、その沈黙は、距離ではない。
信頼だ。
(……触れなくても、伝わる)
それが、今の二人の形だった。
夕刻。
視察団が去り、屋敷に静けさが戻る。
庭園を歩く二人の間には、自然と間が空いていた。
「……今日は」
セーブルが、珍しく言葉を探す。
「……疲れたか」
「少しだけ」
ヴェルティアは、正直に答えた。
「でも、不思議と……」
言葉を切る。
「不安は、ありません」
それは、昨夜の“確認”があったからだ。
踏み込めると知った。
拒まれないと知った。
だから、今は距離を保てる。
「……それなら、いい」
セーブルは、短く答えた。
日が沈み、夜が訪れる。
書斎での時間。
互いに別の本を読みながら、同じ空間にいる。
言葉は、少ない。
だが、昨夜までの“白”とは違う。
(……危うい)
ヴェルティアは、ふと思う。
触れない約束は、安定ではない。
均衡だ。
少しでも気を抜けば、崩れる。
だからこそ。
(……選び続ける必要がある)
夜更け。
本を閉じ、立ち上がる。
「……おやすみなさい」
「ああ。
……おやすみ」
互いに、立ち止まらない。
振り返らない。
だが、背中で感じている。
この距離が、永遠ではないことを。
触れない約束は、
永続する誓いではない。
それは――
“今は、まだ触れない”という、
明確な選択だ。
そして、その選択が続く限り。
二人の関係は、
甘さよりも、
深さを増していく。
0
あなたにおすすめの小説
婚約者を奪った妹と縁を切ったので、家から離れ“辺境領”を継ぎました。 すると勇者一行までついてきたので、領地が最強になったようです
藤原遊
ファンタジー
婚約発表の場で、妹に婚約者を奪われた。
家族にも教会にも見放され、聖女である私・エリシアは “不要” と切り捨てられる。
その“褒賞”として押しつけられたのは――
魔物と瘴気に覆われた、滅びかけの辺境領だった。
けれど私は、絶望しなかった。
むしろ、生まれて初めて「自由」になれたのだ。
そして、予想外の出来事が起きる。
――かつて共に魔王を倒した“勇者一行”が、次々と押しかけてきた。
「君をひとりで行かせるわけがない」
そう言って微笑む勇者レオン。
村を守るため剣を抜く騎士。
魔導具を抱えて駆けつける天才魔法使い。
物陰から見守る斥候は、相変わらず不器用で優しい。
彼らと力を合わせ、私は土地を浄化し、村を癒し、辺境の地に息を吹き返す。
気づけば、魔物巣窟は制圧され、泉は澄み渡り、鉱山もダンジョンも豊かに開き――
いつの間にか領地は、“どの国よりも最強の地”になっていた。
もう、誰にも振り回されない。
ここが私の新しい居場所。
そして、隣には――かつての仲間たちがいる。
捨てられた聖女が、仲間と共に辺境を立て直す。
これは、そんな私の第二の人生の物語。
婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました
由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。
彼女は何も言わずにその場を去った。
――それが、王太子の終わりだった。
翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。
裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。
王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。
「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」
ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
氷の騎士と契約結婚したのですが、愛することはないと言われたので契約通り離縁します!
柚屋志宇
恋愛
「お前を愛することはない」
『氷の騎士』侯爵令息ライナスは、伯爵令嬢セルマに白い結婚を宣言した。
セルマは家同士の政略による契約結婚と割り切ってライナスの妻となり、二年後の離縁の日を待つ。
しかし結婚すると、最初は冷たかったライナスだが次第にセルマに好意的になる。
だがセルマは離縁の日が待ち遠しい。
※小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。
【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。
紺
ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」
実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて……
「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」
信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。
微ざまぁあり。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
婚約破棄された令嬢、気づけば王族総出で奪い合われています
ゆっこ
恋愛
「――よって、リリアーナ・セレスト嬢との婚約は破棄する!」
王城の大広間に王太子アレクシスの声が響いた瞬間、私は静かにスカートをつまみ上げて一礼した。
「かしこまりました、殿下。どうか末永くお幸せに」
本心ではない。けれど、こう言うしかなかった。
王太子は私を見下ろし、勝ち誇ったように笑った。
「お前のような地味で役に立たない女より、フローラの方が相応しい。彼女は聖女として覚醒したのだ!」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる