『奢侈禁止令の鉄槌 ―偽の公爵令嬢が紡ぐ、着られぬ絹の鎖―』

鷹 綾

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第29話 届けられる報告書

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第29話 届けられる報告書

ヴァルモン公爵家の朝は静かだった。

執務室の窓から、柔らかな光が差し込んでいる。
庭では庭師が剪定をしており、遠くで鳥の声が聞こえた。

屋敷は落ち着いていた。

かつての騒がしさが嘘のように。

机の上には書類が整然と並んでいる。

領地の税収報告。
穀倉の在庫記録。
街道整備の進捗書。

その中に、一つだけ毛色の違う封筒があった。

封蝋には、簡素な工場の刻印。

侍女長が言う。

「北方製糸工場からの月次報告です」

オルタンスは頷いた。

「机へ」

侍女長は封筒を置く。

オルタンスは手を伸ばし、静かに封を切った。

中から数枚の紙が出てくる。

工場の管理帳簿。

生産量の記録。

そして――

労働者報告。

オルタンスは一枚ずつ目を通す。

まず、納品数。

・絹糸 上級品 八十束
・中級品 百三十束
・下級品 四十五束

数字が並ぶ。

工場は順調に稼働していた。

オルタンスは次の紙をめくる。

労働者の作業記録。

そこに一つの名前があった。

セレスティーヌ

彼女は少しだけ視線を止める。

だが表情は変わらない。

記録は簡潔だった。

・作業内容 繭処理/糸引き
・勤務状況 良好
・欠勤 なし
・体調 軽度の火傷あり

それだけ。

特別な言葉はない。

ただ事実だけ。

オルタンスは続きを読む。

賠償返済状況

そこには数字が書かれていた。

返済済額。

残額。

オルタンスは目を細める。

残額は、ほとんど減っていない。

製糸工場の賃金は低い。

生活費が引かれれば、残る金額はわずかだ。

返済には長い年月が必要になる。

もしかすると――

一生かかるかもしれない。

侍女長が小さく言う。

「……順調なようですね」

オルタンスは紙を机に置く。

「ええ」

短い返事。

侍女長は少し迷ってから続けた。

「工場から追加の報告も」

別の紙を差し出す。

そこには管理者の手書きの一文があった。

『セレスティーヌは作業に慣れつつあります。
糸の品質も安定しており、上級絹の生産に貢献しています』

オルタンスはそれを読み終える。

そして言った。

「問題ありませんね」

侍女長が頷く。

「はい」

一瞬だけ沈黙が落ちる。

侍女長は、そっと尋ねた。

「……工場を視察されますか?」

「いずれ」

「領主として必要かもしれません」

オルタンスは少し考えた。

窓の外を見る。

風が庭の木々を揺らしていた。

それから静かに答えた。

「必要ありません」

侍女長が目を瞬く。

「ですが」

オルタンスは書類をまとめた。

「管理者の報告が正確なら」

「私が行く理由はありません」

穏やかな声だった。

「現場が機能しているなら、それで十分です」

侍女長は何も言わなかった。

オルタンスは報告書にペンを走らせる。

確認署名。

それだけ。

書類は次の棚へ送られる。

ただの記録として。

遠く離れた北方の工場では、

今も釜の湯が沸き、

繭が煮られ、

女工たちが糸を引いている。

その中に、

一人の少女がいる。

かつて舞踏会で輝いていた少女。

セレスティーヌ。

彼女の指は、今日も熱湯の中で糸を探している。

だが公爵家の執務室では、

その姿を想像する者は誰もいない。

ただ一枚の紙に書かれた文字だけが、

彼女の存在を示していた。

勤務状況 良好

オルタンスは次の書類を開く。

そこには領地の学校建設計画が書かれていた。

彼女は静かに読み始める。

遠い工場のことは、

もう机の上には残っていなかった。
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