白い結婚のはずでしたが、理屈で抗った結果すべて自分で詰ませました

鷹 綾

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第2話 泣き声だけが残った

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第2話 泣き声だけが残った

 翌朝。
 王都は、異様な熱気に包まれていた。

 原因は一つ。
 昨夜の舞踏会で起きた、あの一件である。

「聞きました? あの……音だけの泣き」

「“よ、よ、よ……”って……?」

「ええ。涙は一切出ていなかったとか」

 貴族街の朝は早い。
 というより、噂話の流通速度が異常だった。

 ノエリア・ヴァンローゼは、そのことをまったく知らず、いつも通り自室で紅茶を飲んでいた。

(静かですわね。とても良い朝です)

 ――この時点で、すでに彼女の認識と世間の温度差は致命的だった。

 屋敷の応接間では、使用人たちがひそひそと声を潜めている。

「奥様、あの……本日のお客様の予定が……」

「急な訪問希望が、三件……いえ、今ので五件に……」

「……?」

 ノエリアは首を傾げた。

「何かありましたの?」

「い、いえ……その……昨夜の……」

「ああ、婚約破棄の件ですわね」

 ノエリアはあっさりと言った。
 まるで「今日は雨ですね」とでも言うかのように。

「もう終わった話ですわ。お気遣いなく」

 使用人たちは、なぜか一斉に息を呑んだ。

(……強すぎません?)

 その頃、王都のとある貴族邸では、緊急お茶会が開かれていた。

「皆さま、昨夜の件……どう思われました?」

 発言したのは、社交界で名の知れた侯爵夫人である。

「私は正直、最初は困惑しましたわ」

「ええ。“泣いているのかしら?”と」

「ですが……」

 別の夫人が扇子で口元を隠し、静かに続けた。

「自ら、あそこまで明確に純潔を断言なさる覚悟……
 並大抵のものではありませんわ」

 場の空気が、ぴしりと締まる。

「普通なら……曖昧にしますもの」

「ええ。“察して”で済ませますわ」

「それを、あの場で……しかも王太子相手に」

 夫人たちは顔を見合わせ、ゆっくりと頷いた。

「触れられてすらいない、と公言する意味……
 分かります?」

「はい。“自分に非は一切ない”と、逃げ道を塞いだのですわ」

「しかも感情論ではなく、事実として」

 ――完全に戦略扱いである。

 その結論に至った瞬間、ノエリアの評価は決まった。

「……恐ろしいほどに高潔」

「同時に、理性的」

「そして何より……強い」

 一方その頃。

「いや、だから誤解なんだ!」

 王宮の執務室で、アルベリク・フォン・アーデルハインは頭を抱えていた。

「俺は、そんなつもりじゃ……!」

 側近は、慎重に言葉を選びながら答える。

「殿下。問題は“つもり”ではございません」

「では何だ!」

「……記録です」

 机の上に置かれた羊皮紙。
 そこには、昨夜の発言が正確に書き写されていた。

『完璧すぎて可愛げがない』
『女は少し馬鹿なくらいがいい』

「……誰が書いた」

「記録官です」

「なぜ!」

「公の場でしたので」

 アルベリクは言葉を失った。

「……待て。
 あの泣き方だぞ?
 どう見ても演技だろう!」

 側近は一瞬、視線を泳がせた。

「殿下……あれを“計算された演技”と受け取る方が、今は多数派です」

「は?」

「“下手に演技ができないほどの衝撃を受けた”
 “感情が壊れるほどの侮辱だった”
 ……そう解釈されています」

「……意味が分からん」

 意味が分からないのは、当然だった。
 ノエリア本人も、分かっていないのだから。

 その頃、ノエリアは庭園を散歩していた。

(今日は天気が良いですわね)

 使用人が、意を決したように声をかける。

「お嬢様……その……昨夜の件ですが……」

「はい?」

「あの……とても、お辛かったのでは……」

 ノエリアは足を止め、少し考えた。

「いいえ?」

 即答だった。

「むしろ、すっきりしましたわ」

 使用人は言葉を失った。

(……やはり、この方は違う)

 その日の午後、ノエリアの屋敷には花束と手紙が届き始めた。

「お見舞い?」
「励まし?」
「称賛?」

 封を切ることなく、机に積まれていく。

(どうしてこうなったのかしら……)

 ノエリアは本気で首を傾げていた。

 だが一つだけ、確かなことがあった。

 昨夜の舞踏会で放たれた、
 あの「よよよ泣き」と事実の一言は――

 すでに彼女の意思とは無関係に、
 王都の空気を完全に変えていたのだった。


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