白い結婚のはずでしたが、理屈で抗った結果すべて自分で詰ませました

鷹 綾

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第29話 戻らない、という事実

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第29話 戻らない、という事実

 ノエリア・ヴァンローゼは、珍しく“夢”を見た。

 王都の自室。
 以前住んでいた、あの部屋。

 窓辺には見慣れた調度品。
 机の配置も、書棚の並びも、
 すべて記憶通り。

 だが。

(……こんなに、
 狭かったかしら)

 違和感が、
 そこかしこにあった。

 空気が重い。
 音が反響する。
 何より――
 落ち着かない。

 ノエリアは、
 夢の中でさえ、
 眉をひそめていた。


---

 目を覚ます。

 天井は、
 今の部屋のもの。

 広く、
 静かで、
 呼吸が楽だ。

「……」

 一瞬、
 胸をなぞる。

(……ああ)

(……そういうことですのね)

 起き上がり、
 カーテンを開ける。

 朝の光が、
 柔らかく差し込む。

 それだけで、
 もう理解していた。


---

 朝の支度を終え、
 廊下を歩く。

 足音が、
 響かない。

(……慣れましたわね)

 この屋敷に。
 この空気に。
 この距離感に。

 ――戻る必要が、
 どこにもない。


---

 書斎。

 ヴァルデリオは、
 すでに来ていた。

「おはよう」

「おはようございます」

 交わされる言葉は、
 いつもと同じ。

 だが、
 ノエリアは思う。

(……“いつも”が、
 ここにある)


---

 午前中。

 作業は、
 滞りなく進む。

 議論も、
 確認も、
 短く正確。

 だが。

 ノエリアは、
 ふとした瞬間に、
 自分の思考の変化に気づく。

(……この件、
 あとで“相談”しよう)

 ――相談。

 確認ではない。
 判断の共有でもない。

 最初から、
 一緒に考える前提。

 その発想に、
 ペンが止まる。

(……戻れませんわね)

 どこへ?

 王都へ?
 独りで決める日々へ?
 距離を管理する生活へ?

 どれも、
 現実味がなかった。


---

 昼。

 中庭。

 二人は、
 特に示し合わせることもなく、
 同じ時間に外へ出た。

 風が、
 少し強い。

 ノエリアは、
 無意識に一歩、
 内側へ寄る。

 ヴァルデリオは、
 何も言わない。

 その沈黙が、
 自然すぎて。

(……戻る場所って)

(……必要でしたかしら)


---

 午後。

 ノエリアは、
 王都から届いた
 形式的な書簡を開いた。

 内容は、
 極めて事務的。

> 今後の連絡は、
必要に応じてのみ行う。



 それを読んで、
 小さく息を吐く。

(……やはり)

 王都は、
 彼女を
 “過去の案件”として
 処理し終えた。

 それでいい。

 それどころか――

(……楽ですわ)

 その感想に、
 もう迷いはなかった。


---

 夕方。

 ノエリアは、
 自室で整理をしていた。

 持ち込んだ私物は、
 すでに完全に
 この屋敷に馴染んでいる。

(……持ち帰るもの、
 ありませんわね)

 王都に。

 もし戻るとしたら、
 持って行くものは?

 答えは、
 すぐに出た。

(……何も)

 記念品も、
 未練も、
 置いてきた感情も。

 すべて、
 ここには要らない。


---

 夜。

 ノエリアは、
 日記を開いた。

 今日の欄は、
 少し長くなる。

『夢を見た。
 以前の部屋にいた。』

 一行空ける。

『落ち着かなかった。』

 さらに一行。

『それで、
 分かった。』

 ペンが、
 止まる。

 言葉を選ぶ必要は、
 もうなかった。

『私は、
 戻れないのではなく、
 戻らない。』

 静かに、
 書き切る。


---

 同じ夜。

 ヴァルデリオは、
 執務を終え、
 灯りを落とした。

(……彼女は)

(……戻らない選択を、
 した)

 だが、
 それを確かめる必要はない。

 選択は、
 態度に出る。

 そして彼女の態度は、
 もう答えそのものだった。


---

 ノエリアは、
 窓辺に立ち、
 夜空を見る。

 遠くに、
 王都の方向があるはずだ。

 だが、
 どこかは分からない。

(……見えませんわね)

 それで、
 問題はなかった。


---

 白い結婚(予定)生活。

 第29日目。

 ノエリア・ヴァンローゼは、
 “戻る”という選択肢を、
 思考の棚から下ろした。

 未練も、
 後悔もない。

 ただ、
 今いる場所が、
 唯一の現実になった。

 それだけのこと。

 ――そしてそれは、
 もう後戻りできない
 という意味だった。


-
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