婚約破棄されて去ったら、私がいなくても世界は回り始めました

鷹 綾

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第十五話 遅れてきた問い

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第十五話 遅れてきた問い

 

 王都の朝は、久しぶりに重かった。

 空気ではない。
 人々の足取りが、だ。

 政務棟の廊下では、いつもなら交わされるはずの軽い挨拶が減り、代わりに短いため息が増えていた。

「……今日も、返答待ちか」 「はい。期限は、今日の正午までです」

 文官が差し出した書類の束を、上司は受け取りながら顔をしかめる。

 選択肢は三つ。
 条件は明確。
 期限も、はっきりしている。

 ――決めるだけ。

 それなのに、決められない。

 

 

 王太子アントナン・ドームは、執務室で一人、机に向かっていた。

 目の前の書類は、理解できない内容ではない。
 だが、判断の“重さ”だけが、異様にのしかかってくる。

(……以前は、こんな感覚はなかった)

 思わず、眉を押さえる。

 選択の結果がどう転ぶのか。
 どこに影響が及ぶのか。

 それを、誰かが先に示してくれていた。

 

 ――誰かが。

 

「……殿下」

 控えめな声に、アントナンは顔を上げた。

「何だ」

「失礼を承知で申し上げます」

 側近は、深く息を吸う。

「……以前は、これらの判断材料を、マイセン公爵令嬢が整理しておりました」

 

 部屋の空気が、凍りついた。

 アントナンは、即座に否定しようとして――言葉を失う。

「……彼女は」

 喉が、詰まる。

「彼女は、補佐役に過ぎなかったはずだ」

「はい」

 側近は、静かに頷く。

「ですが、補佐とは“判断を軽くする役”でもあります」

 

 沈黙。

 それは、否定できない事実だった。

 

 

 同じ頃、聖女フロンは、静かな祈祷室に一人座っていた。

 人の気配が、ない。

 以前なら、祈りを求める者たちの足音が絶えなかった場所だ。

「……聖女様」

 神官が、控えめに声をかける。

「今月の祈祷依頼は、これで以上です」

「……そう」

 フロンは、穏やかに微笑んだ。

 だが、その笑みは、どこか力がない。

(私が失ったのは、奇跡じゃない)

 心の中で、そう思う。

 ――役割だ。

 誰かの判断を軽くする存在。
 誰かの責任を、曖昧に引き受ける存在。

 それが、自分だったのか。
 それとも――

 

 

 午後。

 政務棟の会議室で、ついに声が上がった。

「……このままでは、期限に間に合いません」 「選択肢は揃っています。あとは決めるだけです」

「では、誰が決める?」

 その問いに、誰も答えられない。

 責任を負う覚悟が、誰にもなかった。

 

 しばらくして、年配の文官が、静かに口を開いた。

「……以前は、こういう時、彼女が言っていました」

 視線が集まる。

「『どれを選んでも、国が致命傷を負わない形にしてあります』と」

 

 誰かが、呟いた。

「……そんな人材、今はいない」

 

 

 一方、隣国の官庁。

 エミー・マイセンは、淡々と次の案件に取り組んでいた。

 机の上には、王都から届いた返答書。

 期限ぎりぎり。
 だが、条件は整理され、選択も明確。

「……動いたわね」

 それだけ呟き、次の指示を書き込む。

 感情は、挟まない。

 過去も、振り返らない。

 

 

 夕刻。

 ガイストは、報告を受けながら、短く笑った。

「ようやく、問いに辿り着いたか」

「はい。王都側で、“誰がまとめていたのか”という話が出ています」

「遅いが、無駄ではない」

 ガイストは、窓の外を見る。

「問いを持たない組織は、必ず止まる」 「問いを持った時点で、ようやく再生が始まる」

 

 

 夜。

 王宮の回廊で、アントナンは一人立ち止まっていた。

 かつて、隣を歩いていた令嬢の姿が、脳裏をよぎる。

 静かで、地味で、だが確実だった存在。

「……遅すぎたのか」

 問いは、誰にも届かない。

 

 だが、世界はすでに動いている。

 エミー・マイセンのいない王都は、
 ようやく“失った理由”を考え始めた。

 そして同時に――
 彼女が、もう戻る理由を持たないことも、
 ゆっくりと理解し始めていた。
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