正解を出さない私たちが、それでも前に進めた理由

鷹 綾

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第1話 鏡に選ばれなかった少女

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第1話 鏡に選ばれなかった少女

 クロエは、自分が「ここにいていい存在」だと思えたことが、一度もなかった。

 会社の休憩室。白い壁、白い机、白い天井。
 どこにでもある無機質な空間で、クロエは冷めたコーヒーを口に運びながら、同僚たちの会話を聞き流していた。

「ねえ聞いた? 来月の異動」 「え、また? 大変だねぇ」

 笑い声が弾む。
 けれど、その輪の中にクロエの居場所はない。話しかけられることも、期待されることもない。ただ「そこにいるだけの人」。

 仕事はきちんとこなす。
 指示されたことは正確に、丁寧に。
 それ以上を望まれることはなく、だからこそ失敗もしない。

 ——目立たないことは、楽だ。

 そう思うことで、胸の奥の空洞から目を逸らしてきた。

 定時を過ぎ、薄暗くなったオフィスを後にする。
 帰り道、ショーウィンドウに映る自分の姿を、クロエは一瞬だけ見た。

 地味な服装、控えめな表情。
 誰の記憶にも残らない顔。

「……別に、いいよね」

 小さく呟いて、歩き出した、その時だった。

 視界が、歪んだ。

 足元が消え、世界がひっくり返る感覚。
 悲鳴を上げる間もなく、クロエの体は強い光に包まれた。

 ——まるで、巨大な鏡の中に引きずり込まれるように。

     *

 目を開けた瞬間、クロエは「音」に包まれていた。

 ざわめき。
 人の声。
 布が擦れる音、金属が触れ合う音。

「……え?」

 起き上がろうとして、気づく。
 床が冷たい石でできている。天井が異様に高い。

 恐る恐る顔を上げると、そこは広大な広間だった。
 豪奢な柱、色とりどりのステンドグラス。
 まるで中世の城——いや、ファンタジーの王宮そのもの。

 周囲には、異様な格好をした人々が並んでいた。
 豪華な衣装を纏った貴族らしき男女。
 鎧を着た騎士たち。

 全員が、クロエを見下ろしている。

「……成功、したのか」

 低く響く声。
 玉座に座る壮年の男が、ゆっくりと立ち上がった。

「異界よりの召喚は、確かに成ったようだ」

 意味が、わからない。
 頭が追いつかない。

「え、あの……ここ、どこですか?」

 震える声で尋ねると、広間が一瞬ざわついた。

「言葉が通じる……」 「やはり“適合者”か」

 男は満足そうに頷く。

「ここはルミナティア王国。
 そなたは、この国に必要とされ、召喚された存在だ」

 必要とされた。
 その言葉が、胸に刺さる。

「わ、私が……?」

 思わず自分を指差した。
 間違いではないか、と。

 その時——。

 クロエの背後で、空気が張り詰めた。

「陛下」

 低く、冷静な声。

 振り向いた瞬間、クロエは息を呑んだ。

 そこに立っていたのは、一人の男。
 黒髪、鋭い眼差し、隙のない立ち姿。
 身に纏う騎士団長の制服が、彼の存在感を際立たせている。

「……騎士団長、アストールか」

「は」

 アストールと呼ばれた男は、クロエを一瞥した。

 その視線は、冷たい。
 値踏みするようで、感情が一切ない。

「この者が、例の“鏡に選ばれし王妃候補”ですか?」

 ——王妃候補。

 言葉の意味を理解する前に、心臓が跳ね上がった。

「え!? ちょ、ちょっと待ってください!」

 思わず声を上げる。

「私、そんなのじゃありません! 普通の人間で——」

 しかし、誰も聞いていない。

 玉座の男——国王が、ゆっくりと頷く。

「そうだ。
 この国に伝わる“真実を映す鏡”が、彼女を選んだ」

 クロエは、視線を感じて気づいた。

 広間の中央。
 台座の上に置かれた、大きな鏡。

 ——否。

 ただの鏡ではない。

 鏡面が、淡く揺れている。
 水面のように、呼吸するかのように。

 そして。

 鏡の奥から、確かに「何か」がクロエを見つめ返していた。

「……うそ」

 背筋が、凍る。

 アストールは、眉をひそめた。

「……こんな、か弱そうな少女が?」

 その呟きは小さかったが、クロエにははっきりと聞こえた。

 胸が、ちくりと痛む。

 ——やっぱり。

 どこに行っても、同じだ。

 期待されて、失望される。
 価値があると持ち上げられて、すぐに疑われる。

「陛下」

 アストールは一歩前に出た。

「彼女を王妃候補とするのは、危険です。
 鏡の力は、国を滅ぼしかねない」

 その言葉に、クロエは強く俯いた。

 危険。
 不要。
 近づけるな。

 聞き慣れた評価。

 その瞬間——。

 背後の鏡が、強く光った。

「……?」

 思わず振り返ると、鏡の中に“文字ではない何か”が浮かび上がる。

 感情。
 言葉にならない、感情の塊。

 ——「彼女を、これ以上、近づけるな」

 それが、アストールの本音だと、なぜか直感でわかってしまった。

 クロエは、そっと息を吸った。

 そして、小さく、微笑む。

「……大丈夫です」

 自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。

「私、迷惑なら……すぐに、いなくなりますから」

 広間が静まり返る。

 アストールの目が、わずかに見開かれた。

 ——その時、彼はまだ知らなかった。

 この少女が、やがて自分の人生を根底から揺るがす存在になることを。

 そしてクロエもまた知らない。

 鏡に選ばれなかったと思っているこの瞬間こそが、
 本当の物語の始まりだということを。

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