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第3話 冷たい騎士団長と王妃候補
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第3話 冷たい騎士団長と王妃候補
王宮の朝は、想像していたよりも静かだった。
クロエは与えられた客間で目を覚まし、天蓋付きの寝台からそっと体を起こす。
柔らかなシーツ、淡い香り。どれもが現実味を欠いていて、少し動けば夢から覚めてしまいそうだった。
「……夢じゃ、ないんだよね」
呟きながら、鏡台に映る自分を見る。
そこにいるのは、確かにクロエ自身だ。昨日までと同じ顔、同じ瞳。
ただ一つ違うのは——
この場所で「王妃候補」と呼ばれる立場に置かれていること。
重たい。
その言葉が、胸に落ちる。
コンコン、と控えめなノック。
「クロエ様。お目覚めでしょうか」
扉の向こうから、柔らかな声がした。
「は、はい……!」
慌てて返事をすると、扉が開き、若い侍女が頭を下げる。
「私はセリアと申します。本日から、身の回りのお世話をさせていただきます」
にこり、と親しみやすい笑顔。
「……よろしくお願いします」
クロエがそう返すと、セリアは少し驚いた顔をしてから、微笑みを深くした。
「王妃候補様が、こんなに丁寧な方だとは思いませんでした」
「え? あ、いえ……普通です」
「いいえ。ここでは“普通”は、意外と珍しいんですよ」
意味深な言葉に、クロエは首を傾げる。
*
朝食を終えた後、クロエは王宮内を案内されることになった。
廊下を歩くたび、視線を感じる。
好奇。
猜疑。
警戒。
——そして、わずかな悪意。
気づかないふりをしていたが、ある瞬間、胸がちくりと痛んだ。
近くの壁に、装飾用の小さな鏡が掛けられている。
無意識に目を向けた、その瞬間。
鏡が、淡く揺れた。
映ったのは、通り過ぎた貴族令嬢たちの姿。
だが、その背後に、黒い靄のような感情が絡みついている。
——「平民くずれが」
——「どうせすぐ消える存在」
——「鏡に選ばれた? 笑わせないで」
言葉にならない、けれど確かな感情。
「……っ」
クロエは思わず足を止めた。
「クロエ様?」
セリアが心配そうに振り返る。
「い、いえ……大丈夫です」
大丈夫。
そう言い聞かせながら、胸の奥が冷えていくのを感じていた。
——これが、この場所。
昨日までとは違う種類の孤独が、確かに存在している。
*
昼前、クロエは王命により、騎士団の訓練場を訪れることになった。
「……どうして、ここに?」
思わず口にすると、セリアが苦笑する。
「“王妃候補がどのような人物か、騎士たちにも知ってもらうため”だそうです」
要するに——見定められる、ということだ。
広い訓練場では、騎士たちが剣を交えていた。
金属音が響き、熱気が立ち込める。
その中央で、一際目立つ存在がいた。
——アストール。
無駄のない動き。
一撃一撃が、正確で鋭い。
圧倒的な強さに、思わず見入ってしまう。
「……綺麗」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど正直だった。
その瞬間。
アストールの動きが止まり、鋭い視線がこちらを向いた。
目が合う。
冷たい、氷のような眼差し。
胸が、きゅっと締め付けられる。
彼は剣を下ろし、訓練場の端へ歩いてきた。
「……なぜ、ここにいる」
低く、感情のこもらない声。
「陛下の命です」
クロエは、できるだけ落ち着いて答えた。
「私が望んだわけではありません」
アストールの眉が、僅かに動く。
「……そうだろうな」
短く吐き捨てるように言い、視線を逸らす。
「王妃候補という肩書きに、浮かれる様子はない。
それだけは評価する」
「……評価、ですか」
思わず苦笑が漏れる。
「必要ありません。
私は、ここにいたくているわけじゃないので」
空気が、凍りついた。
アストールが、ゆっくりとクロエを見る。
「ならば、なぜ去らない」
その問いは、鋭かった。
「去れと言われたら、すぐにでも——」
言いかけて、言葉を止める。
——去りたい。
けれど。
鏡の中で見た、彼の本音が脳裏をよぎる。
拒絶と、保護。
相反する感情。
「……それを決めるのは、私だけじゃありませんから」
そう答えると、アストールは一瞬だけ、目を伏せた。
その時。
「きゃっ!」
突然、悲鳴が上がる。
訓練場の端で、若い騎士が剣を取り落とし、そのまま弾かれた剣がクロエの足元へ飛んできた。
反射的に、身を竦める。
——間に合わない。
だが次の瞬間、視界が遮られた。
強く、確かな腕。
クロエは、誰かに引き寄せられ、剣は空を切って地面に突き刺さる。
「……っ」
顔を上げると、そこにはアストールがいた。
片腕でクロエを庇い、もう一方の手で剣を弾いている。
「……怪我は」
短い問い。
「……ありません」
答えると、彼はすぐに手を離した。
「注意が足りない」
それは、周囲の騎士たちに向けた叱責だった。
誰もが、頭を下げる。
クロエは、胸の奥がざわつくのを感じていた。
——冷たい人。
でも。
鏡に映らなくても、行動は嘘をつかない。
「……ありがとうございます」
そう告げると、アストールは一瞬だけ動きを止めた。
「……礼を言われる筋合いではない」
背を向ける。
だが、その耳が、わずかに赤く染まっていることに、クロエは気づいてしまった。
その小さな変化に、胸の奥が、ほんのりと温かくなる。
——怖い。
でも。
この場所で、誰かが自分を守ったという事実は、確かだった。
クロエは、そっと拳を握る。
まだ、ここにいていい理由は見つからない。
けれど——すぐに逃げるのは、少しだけ、惜しい気がしていた。
冷たい騎士団長の背中を見つめながら、クロエはそう思ってしまった自分に、戸惑いながらも、目を逸らさなかった。
王宮の朝は、想像していたよりも静かだった。
クロエは与えられた客間で目を覚まし、天蓋付きの寝台からそっと体を起こす。
柔らかなシーツ、淡い香り。どれもが現実味を欠いていて、少し動けば夢から覚めてしまいそうだった。
「……夢じゃ、ないんだよね」
呟きながら、鏡台に映る自分を見る。
そこにいるのは、確かにクロエ自身だ。昨日までと同じ顔、同じ瞳。
ただ一つ違うのは——
この場所で「王妃候補」と呼ばれる立場に置かれていること。
重たい。
その言葉が、胸に落ちる。
コンコン、と控えめなノック。
「クロエ様。お目覚めでしょうか」
扉の向こうから、柔らかな声がした。
「は、はい……!」
慌てて返事をすると、扉が開き、若い侍女が頭を下げる。
「私はセリアと申します。本日から、身の回りのお世話をさせていただきます」
にこり、と親しみやすい笑顔。
「……よろしくお願いします」
クロエがそう返すと、セリアは少し驚いた顔をしてから、微笑みを深くした。
「王妃候補様が、こんなに丁寧な方だとは思いませんでした」
「え? あ、いえ……普通です」
「いいえ。ここでは“普通”は、意外と珍しいんですよ」
意味深な言葉に、クロエは首を傾げる。
*
朝食を終えた後、クロエは王宮内を案内されることになった。
廊下を歩くたび、視線を感じる。
好奇。
猜疑。
警戒。
——そして、わずかな悪意。
気づかないふりをしていたが、ある瞬間、胸がちくりと痛んだ。
近くの壁に、装飾用の小さな鏡が掛けられている。
無意識に目を向けた、その瞬間。
鏡が、淡く揺れた。
映ったのは、通り過ぎた貴族令嬢たちの姿。
だが、その背後に、黒い靄のような感情が絡みついている。
——「平民くずれが」
——「どうせすぐ消える存在」
——「鏡に選ばれた? 笑わせないで」
言葉にならない、けれど確かな感情。
「……っ」
クロエは思わず足を止めた。
「クロエ様?」
セリアが心配そうに振り返る。
「い、いえ……大丈夫です」
大丈夫。
そう言い聞かせながら、胸の奥が冷えていくのを感じていた。
——これが、この場所。
昨日までとは違う種類の孤独が、確かに存在している。
*
昼前、クロエは王命により、騎士団の訓練場を訪れることになった。
「……どうして、ここに?」
思わず口にすると、セリアが苦笑する。
「“王妃候補がどのような人物か、騎士たちにも知ってもらうため”だそうです」
要するに——見定められる、ということだ。
広い訓練場では、騎士たちが剣を交えていた。
金属音が響き、熱気が立ち込める。
その中央で、一際目立つ存在がいた。
——アストール。
無駄のない動き。
一撃一撃が、正確で鋭い。
圧倒的な強さに、思わず見入ってしまう。
「……綺麗」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど正直だった。
その瞬間。
アストールの動きが止まり、鋭い視線がこちらを向いた。
目が合う。
冷たい、氷のような眼差し。
胸が、きゅっと締め付けられる。
彼は剣を下ろし、訓練場の端へ歩いてきた。
「……なぜ、ここにいる」
低く、感情のこもらない声。
「陛下の命です」
クロエは、できるだけ落ち着いて答えた。
「私が望んだわけではありません」
アストールの眉が、僅かに動く。
「……そうだろうな」
短く吐き捨てるように言い、視線を逸らす。
「王妃候補という肩書きに、浮かれる様子はない。
それだけは評価する」
「……評価、ですか」
思わず苦笑が漏れる。
「必要ありません。
私は、ここにいたくているわけじゃないので」
空気が、凍りついた。
アストールが、ゆっくりとクロエを見る。
「ならば、なぜ去らない」
その問いは、鋭かった。
「去れと言われたら、すぐにでも——」
言いかけて、言葉を止める。
——去りたい。
けれど。
鏡の中で見た、彼の本音が脳裏をよぎる。
拒絶と、保護。
相反する感情。
「……それを決めるのは、私だけじゃありませんから」
そう答えると、アストールは一瞬だけ、目を伏せた。
その時。
「きゃっ!」
突然、悲鳴が上がる。
訓練場の端で、若い騎士が剣を取り落とし、そのまま弾かれた剣がクロエの足元へ飛んできた。
反射的に、身を竦める。
——間に合わない。
だが次の瞬間、視界が遮られた。
強く、確かな腕。
クロエは、誰かに引き寄せられ、剣は空を切って地面に突き刺さる。
「……っ」
顔を上げると、そこにはアストールがいた。
片腕でクロエを庇い、もう一方の手で剣を弾いている。
「……怪我は」
短い問い。
「……ありません」
答えると、彼はすぐに手を離した。
「注意が足りない」
それは、周囲の騎士たちに向けた叱責だった。
誰もが、頭を下げる。
クロエは、胸の奥がざわつくのを感じていた。
——冷たい人。
でも。
鏡に映らなくても、行動は嘘をつかない。
「……ありがとうございます」
そう告げると、アストールは一瞬だけ動きを止めた。
「……礼を言われる筋合いではない」
背を向ける。
だが、その耳が、わずかに赤く染まっていることに、クロエは気づいてしまった。
その小さな変化に、胸の奥が、ほんのりと温かくなる。
——怖い。
でも。
この場所で、誰かが自分を守ったという事実は、確かだった。
クロエは、そっと拳を握る。
まだ、ここにいていい理由は見つからない。
けれど——すぐに逃げるのは、少しだけ、惜しい気がしていた。
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